前田健太はPL学園1年夏から甲子園を経験 高校野球ファンは「桑田真澄二世」と呼んだ

  • 田口元義●文 text by Taguchi Genki

プロ野球選手の甲子園奮戦記(5)〜前田健太(タイガース)

【1年夏から実質エースとして活躍】

 日米通算163勝(2023年シーズン終了時点)を誇る前田健太の大きな分岐点を挙げるとすれば、PL学園に進学したことだろう。

 中学時代に所属していた忠岡ボーイズでエースを務め、日本代表として出場した世界大会で優勝を果たした前田のもとには、関西をはじめ、東北や四国の強豪校からも誘いがあった。「高校からプロ」と目標を立てていた前田は、それが叶うのなら高校のこだわりがなかったという。

1年夏から甲子園のマウンドを経験したPL学園・前田健太 photo by Kouchi Shinji1年夏から甲子園のマウンドを経験したPL学園・前田健太 photo by Kouchi Shinjiこの記事に関連する写真を見る そんな彼にPL学園を勧めたのが、同校OBで忠岡ボーイズの監督だった阪川英次である。

「プロ野球選手をたくさん出しているPLに行くことが一番の近道だと思うぞ」

 甲子園優勝は春夏合わせて7回の超名門。1980年代黄金時代の象徴である桑田真澄、清原和博の「KKコンビ」など数多くのプロ野球選手を輩出していることを阪川から聞かされた前田は、迷わず進路を決めた。

 そのデビューは早かった。

 PL学園に入学して1カ月後には3年生を相手にシートバッティングで投げ、練習試合でも起用されるようになった。

 そして夏の大阪大会でベンチ入りした前田は、大阪桐蔭との決勝戦で延長15回引き分けとなった翌日の再試合に先発し、完投勝利と大役を果たした。大会ではチームトップの7試合、42回3/2を投げた1年生のパフォーマンスは、エースと呼ぶにふさわしいものだった。

 キレのいいストレートはコントロールに優れ、カーブは鮮やかな弧を描き鋭く落ちる。そのピッチングは、まさに83年夏に1年生ながら甲子園優勝の原動力となった桑田そのものであり、高校野球ファンの間で「桑田二世」と呼ばれることとなった。

「光栄に思っていました。自分も前から好きな選手で尊敬もしていましたし、みなさんからそう言っていただけるだけでうれしかったというか。桑田さんと比べていただける選手になるために、あの頃は『超えてやろう』くらいに意気込んでいたように思いますね」

【ほろ苦い甲子園デビュー】

 2004年夏、甲子園初戦の先発マウンドに上がったのは、1年時の桑田と同じ背番号「11」を背負った前田だった。

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著者プロフィール

  • 田口元義

    田口元義 (たぐち・げんき)

    1977年、福島県出身。元高校球児(3年間補欠)。雑誌編集者を経て、2003年からフリーライターとして活動する。雑誌やウェブサイトを中心に寄稿。著書に「負けてみろ。 聖光学院と斎藤智也の高校野球」(秀和システム刊)がある。

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