「離島のハンデ」を乗り越え、センバツ出場。なぜ大島高校は甲子園までたどり着けたのか (3ページ目)

  • 菊地高弘●文・写真 text & photo by Kikuchi Takahiro

 とくにエースの大野はピンチになればなるほど集中力が研ぎ澄まされていった。味方のエラーが気にならないのかと聞くと、大野はこう答えた。

「昔から人数が少ないなかで野球をやってきて、『ミスするのは当たり前』という環境に慣れていたので。もう気にならないですね」

 脆さとたくましさ。そんな諸刃の剣で九州の猛者をなで斬り、大島高校は九州ナンバー2の座へと上り詰めた。

【島ぐるみで育てた選手たち】

 ただし、大島高校の快挙は大野たちの学年だけで成し遂げたものではない。とくに8年前に21世紀枠で甲子園に出たことが大きいと塗木監督は力説する。

「島の人たちの間で『今度は実力で奄美から甲子園に行きたいよね』と世間話に出るくらい、思いが根底に流れていた。甲子園に出たメンバーは後輩に経験を語り、その後も鹿児島でベスト4〜8の実力をキープできた。だから子どもたちは島外に出ず大島高校を選んでくれて、今回のセンバツにつながったんです。21世紀枠の意義は子どもや地域の人に『今度は実力で甲子園に行きたい』という気持ちを持たせてくれるところにあると実感します」

 今年のメンバーも、「島ぐるみで育てた選手たち」と言っても過言ではない。コロナ禍以前には、筑波大の川村卓監督や野球部員が毎年奄美大島を訪れ指導者講習会を開いていた。特筆すべきは、この講習会が小学校、中学校、高校のカテゴリーごとに行なわれたことだ。塗木監督は「小中高とつながりのある指導を目指しているので、共通認識を持てる場は貴重でした」と語る。

 また、池田高校(徳島)の名将だった蔦文也さん(故人)のファンである塗木監督は、奄美大島の映画館で映画『蔦監督』の上映会を企画した。

「蔦監督の『山あいの町の子供たちに一度でいいから大海(甲子園)を見せてやりたかったんじゃ』という言葉がありますよね。私も同じ思いがあったんです」

 このように大島から甲子園を目指すための土壌を着々と固めていた一方で、離島ならではのデメリットもある。もっともネガティブな要因は、実戦経験の乏しさである。島内にはほかにも高校があるものの、部員不足のため思うように試合が組めない。島外への遠征は費用の問題から機会が限られ、あとはチーム内で紅白戦を積むしかない。

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