阿波の金太郎2世に異色経歴あり。池田高校から18年ぶり指名なるか (2ページ目)
池田で甲子園を目指す──白川が迷いなく決断した背景には、父の存在があった。
「父から池田の話を聞く機会が昔から多かったんです。蔦(文也)監督というすごい指導者がいたこと、あの時代から科学的なトレーニングをしていたこと......。いろんな話を聞かせてくれました。父も野球をやっていて、ケガがなければ池田で野球を続けるつもりだったと話していました。父の分まで自分が池田で甲子園を目指したいという思いがありました」
白川の父は、"阿波の金太郎"の水野雄仁(現・巨人一軍投手コーチ)と同世代。「水野が投手として入学するから、ショートとして池田に」と蔦監督も熱心に声をかけた逸材だった。しかし、最終的には中学時代に受けた手術の影響で、高校で野球をすることを断念した。「完全燃焼できなかった父の夢を追いたい」という思いもあり、池田高校野球部の門を叩いた。
名門のユニフォームに袖を通し、初めて公式戦のマウンドに立ったのは1年夏。2年夏からはエースナンバーを背負い、主戦として登板を重ねた。球速も2年時に140キロに到達。順調な成長曲線を描いていたが、2年秋の県大会後に腰椎分離症が発覚した。この期間について白川が振り返る。
「この時期は自分でも『思ったより球速が伸びないな』と悩んでいたタイミングでもありました。ケガが重なったこともあって、一度『スピードよりもキレを磨いてみよう』と考え方を変えてみたんです」
背中側に腕を引きすぎるテークバックなど、投球フォームの見直しに着手。それだけでなく、指先を鍛えるために、砂が入ったボールを指でつかむトレーニングも取り入れた。
「菅野智之投手(巨人)がやっている動画を見て、自分も練習に取り入れました。やる前と今とでは回転数にかなり違いがでてきたと思います」
手探りの状態ではあったが、故障明けの3年春の実戦で自己最速を更新する143キロを計測。そして、優勝候補の一角として臨んだ今年の夏は、準々決勝の川島戦で146キロをマークし、「大会屈指の本格派右腕」の名に恥じないインパクトを残した。そのときのことを白川はこう振り返る。
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