甲子園のスラッガーたちは、なぜ1年生・荒木大輔を打てなかったのか (2ページ目)

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • 岡沢克郎●写真 photo by Okazawa Katsuro

 早稲田実業は1977年春から1978年夏まで4季連続で甲子園出場を果たしていた。そのなかには荒木大輔の兄、健二がいた。しかし、この年は下馬評に上がらず、優勝候補と考える人は少なかった。

 だが、準々決勝で岩倉に3-0、準決勝で帝京を4-0で下し決勝進出。決勝では二松学舎に先制されながらも終盤に追いつき、10-4で優勝を決めた。

 周囲からの期待も高くなかったし、僕たちも「何が何でも甲子園に行くぞ」という気持ちではなかった。エースの芳賀が故障してしまったということもあって、捨て身だったし、怖いものは何もなかった。「勝たなきゃいけない」というプレッシャーがなかったのがよかったのかもしれませんね。あれよ、あれよという感じで勝ち上がっていった。

 でも、岩倉と帝京を完封したことよりも、決勝で大輔がパカパカ打たれたことのほうが強く印象に残っています。東東京大会の時点では、大輔はその程度のピッチャーでした。

 そのときの大輔は、5月に16歳になったばかりの1年生。それも急造ピッチャーでしたから、キャッチャーとしては「思い切って投げてこい」と言うくらいで、作戦の立てようがなかった。コントロールはよかったけど、球種はストレートとカーブしかないし。

 ただ、メンタル部分は心配していませんでした。ピッチャーとしては不感症だったんじゃないかな(笑)。ピリピリした感じはなくて、どちらかと言うとぼーっとしているように見えました。目立ってやろうとか、かっこつけるようなところは全然なくて、堂々としているのともちょっと違った。まあ、場慣れしているというのはあったでしょうね。

 もちろん、リトルリーグと高校野球では注目のされ方が全然違う。高校に入ったばかりで東東京大会に投げてみたら、全部勝った。応援団もいて、報道もされて、いい心地になったんでしょう。

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