阪神時代の絶頂期に藤川球児が打ち明けた苦悩

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エースの響き~ブルペン捕手・中谷仁が見た「超一流の流儀」
藤川球児(2)

 中谷仁です。私は今、子どもたちに野球を教えながら、自分自身も勉強の日々を送っています。私は選手、ブルペン捕手として16年間プロの世界に身を置いてきました。阪神、楽天、巨人、さらには2013年のWBCで数多くの超一流と呼ばれるエースたちの球を受け、彼らの凄さを知ることができました。これまで私が彼らと過ごした貴重な時間を振り返り、彼らの人間性、能力の高さに迫りたいと思います。前回に続き、いまメジャーで頑張っている藤川球児についてお話させていただきます。
(前回の記事はこちら)

2013年にシカゴ・カブスと2年契約を結んだ藤川球児2013年にシカゴ・カブスと2年契約を結んだ藤川球児

 球児が二軍から一軍に定着したのが、入団6年目、2004年のシーズン後半でした。そして翌年にはジェフ・ウィリアムス、久保田智之とともに最強のリリーフ陣"JFK"を形成し、リーグ優勝の原動力となりました。それでも彼は、常に向上心を持って野球に打ち込んでいました。

 2005年シーズンのある巨人戦でのことです。清原和博さんとの対決で、フルカウントからフォークで空振りを奪いましたが、清原さんは「男気がない!」と球児の投球を批判しました。これを聞いた球児は試合後、涙を流したそうです。ただ、このままで終わらないのが球児。そして清原さんとの再戦で今度はストレート勝負で三振。その時、清原さんが「自分がこれまで見た中でナンバーワンのストレート」と言ったのですが、あの時は本当に自分のことのように嬉しかったですね。

 それがきっかけとなって、球児のストレートはさらに磨きがかかりました。2006年にオールスターに出場した時、西武のカブレラ、日本ハムの小笠原道大(現・中日)さんといった強打者相手に「全球ストレートでいきます」と言って、本当にストレートだけで三振を取りました。常時150キロを超す直球は"火の玉ストレート"と呼ばれ、わかっていても打てない魔球になっていました。2005、2006年は最優秀中継ぎ投手、2007年、2011年は最優秀救援投手のタイトルを獲得するなど、球界を代表するリリーフ投手へと成長しました。

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