ソフトボール・上野由岐子の五輪への熱い想い (2ページ目)

 もちろん、五輪にもう一度出たいという夢も捨ててはいません。「今回の選考がダメでも次(2024年大会)は出られるかもしれない。だから、10年でも20年でも、可能な限り現役を続けたい」。そう語る上野選手の言葉から、とにかくソフトボールが大好きだという思いが伝わってきました。

 そんな上野選手が一番熱く語ってくれたのは、今まで出場した五輪を振り返った時。2004年のアテネ五輪で銅メダルを獲った後、次の北京大会までの4年間は、本当に苦しくて何度も「ピッチャーを辞めたい」「ソフトボールを辞めたい」と思ったそうです。

 感情が揺れ動いたその4年間、「辞めたいという思いがどんどん膨らんで、ふさぎ込んだ時期もありました。でもそんなとき、グラウンドへ出ると、明るく頑張っているチームメイトがいて、落ち込んでいる自分を励ましてくれた。チームスポーツでなければあのとき辞めていたかもしれません」といいます。

 北京五輪のとき、2日間3試合で413球を投げ切った上野選手はずば抜けた強い気持ちを持っている。そう思っていた私にとって、この言葉は意外なものでした。五輪の大舞台で「この人に任せておけば大丈夫だ」とチームから絶対的な信頼をされ、周囲に安心感を与えていたエースに、そんな時期があったことに驚いたからです。

 銅メダルだったアテネ五輪のあと、宇津木妙子監督の退任もあり「自分が大黒柱にならなければ」というプレッシャーもあったと思います。そんな葛藤の末に獲得した北京の金メダル。表彰台へ上がるまで、上野選手は「私は絶対に人前では泣かない」と決めていたそうです。

 以前、東大野球部を指導している桑田真澄さんが「ピッチャーというのはどんな時にもポーカーフェイスでいなければいけない」と、投手陣に話されていたのですが、上野選手もピッチャーとしてそういう意識が強かったのだと思います。どんなに動揺しても感情をグッと抑えなくてはいけないピッチャーとして、涙という感情表現を自制することを課していたのだと思います。

 それでも「表彰台でメダルをかけてもらった瞬間、自然と涙が流れてきた」という上野選手はその時、「これが『感動する』ということなのか」と生まれて初めて実感したそうです。

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