水野裕子のバスケットボール人生...スパルタな部活時代、男子W杯のフィンランド戦は「嗚咽するくらい泣きました」
水野裕子 インタビュー後編(全3回)
テレビ番組でさまざまな競技に挑戦してきたスポーツの伝道師、水野裕子さん。そんな水野さんは中学生の時にバスケットボール部に所属し、今もNBA関連の番組や雑誌で活躍している。今回は、バスケットボールへの愛を存分に語ってもらった。
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【レジー・ミラーに衝撃を受けたバスケ少女】
ーー小学生の時にミニバスケットをやっていて、中学時代はバスケ部に所属されていたそうですね。
水野裕子(以下同) 中学では、本当はソフトボール部に入りたかったんですが、ひとつ上の代で人数が少なくて廃部になってしまい......。田舎の中学校だったので、運動部が他にバスケ部、バレー部、ソフトテニス部、水泳部しかなかったんです。
そのなかだったらバスケ部かな、と。当時はちょうど『SLAM DUNK(スラムダンク)』ブームでもありましたし。
ーー現在は身長160センチですが、子どもの頃はいかがでしたか?
すごくチビでした。背の順で並べば小学校の6年間はずっと最前列でしたし、中学入学時点で130センチ台でした。
でも、自分なりに背を伸ばしたくて、バナナときなこを牛乳に混ぜて飲んだりはしてましたね(笑)。そのおかげかはわからないですけど、中学生の3年間で20センチ以上も伸びたんです。夜寝てる時に体がミシミシと鳴ってて、成長痛でひざもすごく痛かった。
ーーバスケのポジションは?
ポイントガードでした。でも、背も低いし力もなかったから最初はフリースローラインからすらゴールに届きませんでした(笑)。
顧問の先生に「これは他の人に負けないというものをつくりなさい」と言われました。そんな時にNBAのインディアナ・ペイサーズとニューヨーク・ニックスの試合(※1995年のイースタン・カンファレンス準決勝第1戦)をたまたま見たんです。
レジー・ミラーという選手が残り16.4秒、6点ビハインドという状況で3ポイント2本、フリースロー2本の計8点をとって大逆転した伝説の試合。あまりにカッコよくて、私もミラー選手と同じ3ポイントシューターになろうと練習を始めました。
ーー水野さんも3ポイントの名手に?
練習試合の前半だけで8本決めて、後半ベタつきのマークで何もさせてもらえなかったことが一度ありましたね。その時は、「覚醒した!」と思いましたけど、公式戦じゃさっぱりでした(笑)。
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著者プロフィール
武松佑季 (たけまつ・ゆうき)
雑誌ライター。1985年、神奈川県秦野市生まれ。編集プロダクションを経てフリーランスに。インタビュー記事を中心に各メディアに寄稿。東京ヤクルトファン。サウナー見習い。