櫻坂46田村保乃、スポーツ少女からアイドルへ。「涙は悔し泣きから、うれし涙、心を動かされるものに変わった」 (2ページ目)

  • 中西美雁●取材・文 text by Nakanishi Mikari
  • 田中 亘●撮影 photo by Tanaka Wataru

●迷ったら難しいほうを選ぶ

ーーところで、大学にはバレー部の特待生で入られたとか?

田村 はい、思いもかけずお声がけいただいて。先ほど(前編で)もお話ししたように、「バレーは高校で燃え尽きよう」と決めていたので、正直かなり迷ったんです。もうバレーからは離れて、勉強したり遊んだりしたいなって。だけど、ちょうどその頃、憧れの木村さんがバレー人生で初めてキャプテンをやるということがあって。ずっと断っていたらしいんですが、眞鍋政義監督が本当に何度もお願いして、木村さんがキャプテンを受けると決めた理由について「何か選択肢があったら、難しいほう、苦しいほうを選ぶ」と、おっしゃっていたんです。私はその言葉にすごく感動して、バレーボールじゃない道を選んだほうが大学は楽しめるのかなとかいろいろ思ったんですけど、もうちょっとやってみようと決めたんです。そう考えると、木村さんにはすごく影響されていますね。

バレーボール部時代の思い出を語った田村さんバレーボール部時代の思い出を語った田村さんこの記事に関連する写真を見るーー大学ではアルバイトをしていましたか?

田村 はい、高校時代よりは時間ができたので、シュークリームのお店でアルバイトしました。楽しい思い出です。もうその頃にはバレー選手になるという目標ではなくて、幼稚園の先生になりたいと思っていました。

ーーこの頃からアイドルになる道を考え始めたのですか?

田村 高校時代よりは時間的に余裕ができたので、アイドルに会いに行く機会も増えました。でも、アイドルに対する憧れはずっとあったんですけど、自分がそれになれるとも思ってなかったです。私はずっとスポーツ少女で生きてきたので、そこからいきなりアイドルになれるなんてまったく想像していなかった。ただバレーボールを頑張れたのはアイドルがいたからっていうのもすごくあったので、そういう道も少しずつ考えはじめて。私が受けたオーディションは坂道合同オーディションといって、一次審査の前のセミナーが全国各地で行なわれていたんですね。私は大阪出身なんですけど、大阪にも乃木坂46だったり、日向坂46だったり、欅坂46のメンバーの方々が来てくれるっていうのがあったんです。私は握手会も行っていたので、そういう感覚で大阪のセミナーに行ったのがきっかけです。その時に1次審査が免除になる「シード権」をいただいて、合格したので、たくさん考えたうえで、アイドルの道に進むことにしました。

ーーアイドルになってバレーボールをしていた時と変わった部分はありますか?

田村 バレーをやっている間は、ずっと悔し泣きしかしたことがなかったんです。本当に負けず嫌いなので試合に負けたり、練習でうまくいかなくて泣いたり。でもアイドルになってからはうれし涙なのか、心を動かされて涙することがあって、「自分もこういう涙が流せるんだ」とうれしかったです。そういう新しい景色を見せてくれたファンのみなさんのおかげです。

(おわり)

【profile】
田村保乃 たむら・ほの 
1998年、大阪府生まれ。幼少期にバレーボールを始め、大学途中までプレー。2018年、坂道合同オーディションに合格し、欅坂46(現・櫻坂46)の2期生としてアイドル活動をスタート。2021年には自身初の写真集『一歩目』(小学館)を発売。櫻坂46通算3枚目のシングル『流れ弾』ではセンターを務めた。

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