クライフはオランダサッカーの時計を止めてしまった

  • サイモン・クーパー●文 text by Simon Kuper  森田浩之●訳 translation by Morita Hiroyuki

【サイモン・クーパーのフットボール・オンライン】ヨハン・クライフの時代(後編)

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晩年も大きな影響力があったクライフ。追悼式に出席したイニエスタとブスケツphoto by Getty Images晩年も大きな影響力があったクライフ。追悼式に出席したイニエスタとブスケツphoto by Getty Images ヨハン・クライフはオランダ・フットボールに大きな影響を及ぼしたが、いい面ばかりではなかった。クライフは人とぶつかることが好きだった。チーム内の対立はいいことだ、誰もが自分の正しさを証明しなくてはいけないから──という理論まで打ち立てた。彼は「対立モデル」と呼んでいた。

「対立モデル」はオランダ・フットボールの基本にさえなった。当のクライフまでが、「オランダの選手は口を開けば『それはそうだけど......』と反論する」と語ったことがある。1990年のワールドカップと1996年の欧州選手権では、「対立モデル」がオランダ代表を分裂させた。

 クライフがPKを軽蔑していたことも、オランダに悪影響をもたらした。PKはあまりに単純で野蛮な行為だから、面白くないとクライフは考えていた。よく知られる話だが、クライフは1982年にイェスパー・オルセンとふたりでPKを蹴った(クライフがPKスポットから左にボールを蹴り出し、オルセンがこれを受けてゴールキーパーを引きつけた後、リターンパスを受けたクライフが無人のゴールにシュートを決めた)。

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