北口榛花は世界を目指すために日本大に進学 大学2~3年時の伸び悩みをライバルや恩師はどう見ていたか (4ページ目)
【指導者に頼らないアスリートに】
大学2~3年時の低迷を反省し、北口は3年のシーズン後にふたつのことに取り組んだ。
ひとつは下半身のトレーニングに、それまで以上に力を入れること、そして自分に合った指導者を探すことだ。
オフに入ると北口は、混成ブロックで練習を始めた。選手は男子ばかりである。1、2年時にも日大コーチ陣から提案されていたが、北口自身が「逃げ回っていた」。北口にとっては脚の動きをスムーズに行なう目的で、「20種目くらい」をサーキット形式で行なうトレーニングなどを行ない始めた。
「自分の(武器である)振り切りに頼ると限界がある。上半身だけでなく、下半身も使えるようにしたい」(北口)
山下が感じたように、北口はその部分を試行錯誤していた。だがそのための下半身のトレーニングは、そこまで積極的に行なわなかった。北口自身は「笑ってごまかせなくなった」と冗談を交えて説明したが、2シーズン記録が伸びなかったことで、そこに取り組む覚悟を固められた。
指導者探しは、運命的な出会いがあった。現在もコーチを務めるチェコ人のデイビッド・セケラック氏と、11月に交流することができた。出会いについては次回連載で詳述するが、北口は指導者との関係性について松橋氏と話していたことがあるという。
「北口は毎日見てくれるコーチがいなくても、ちゃんとやらなければいけない、ということをまず決めたのだと思う。大学2年、3年とうまくいかないことが続き、自立することが大前提だという考えをまず持ったと思います。それでもひとりでやっていくのでは難しい部分があると判断し、世界トップクラスの技術やトレーニングなどの部分をチェコのコーチに頼る形で行ったのでしょう」
大学3年のシーズン後、いよいよ、北口が自立したアスリートなって世界へのステップを上がり始める。
つづく
著者プロフィール
寺田辰朗 (てらだ・たつお)
陸上競技専門のフリーライター。陸上競技マガジン編集部に12年4カ月勤務後に独立。専門誌出身の特徴を生かし、陸上競技の"深い"情報を紹介することをライフワークとする。座右の銘は「この一球は絶対無二の一球なり」。同じ取材機会は二度とない、と自身を戒めるが、ユーモアを忘れないことが取材の集中力につながるとも考えている。「寺田的陸上競技WEB」は20年以上の歴史を誇る。
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