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【平成の名力士列伝:霧島】甘いマスクと「小よく大を制す」相撲で人気を博した遅咲きの大関

  • 十枝慶二●取材・文 text by Toeda Keiji

霧島は相撲の魅力の一面を体現する力士だったと言える photo by Kyodo News霧島は相撲の魅力の一面を体現する力士だったと言える photo by Kyodo News

連載・平成の名力士列伝35:霧島

平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。

そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、三十路で大関にたどり着く遅咲きながらも、若かりし頃から甘いマスクで人気を博した霧島を紹介する。

連載・平成の名力士列伝リスト

【才色兼備で若かりし頃から人気力士に】

「和製ヘラクレス」と称された筋肉美と、「角界のアラン・ドロン」とも言われた甘いマスクを兼ね備え、力強い吊りや粘り強い打っ棄(うっちゃ)り、鮮やかな出し投げで土俵を沸かせる――。

 霧島一博は、平成初期の土俵を大いに沸かせた人気大関だ。その輝きは、分厚い壁に当たってもあきらめずに挑み続けた、強い精神力と地道な努力によって磨かれたものだった。

 出身は鹿児島県姶良郡牧園町(現・霧島市)。小学生の頃から鉄下駄を履くなど体を鍛えるのが好きで、中学では柔道に打ち込んだ。高校に進みラグビーをやるつもりでいたが、スカウトされて元関脇・鶴ヶ嶺の君ヶ浜部屋(のち井筒部屋)に入門。昭和50(1975)年3月場所、本名の吉永で初土俵を踏み、序二段時代に故郷の名勝に因んで霧島と改名した。細身ながら甘いマスクと引き締まった体で若い頃から人気を集め、昭和57(1982)年5月場所、23歳で新十両。1場所で陥落したが、昭和58(1983)年11月場所の再十両以降は定着した。

 一躍、注目を集めたのは昭和59(1984)年7月場所9日目、小錦との新入幕同士の一番だ。ハワイ出身で200キロ超の巨体を生かした突き押しで番付を駆け上がってきた怪物に対し、117キロとはるかに体格で劣る霧島が真っ向勝負を挑み、強烈な突っ張りをのけぞりながらもこらえて食い下がり、渾身の右下手投げて巨体を鮮やかに倒した。「小よく大を制す」相撲の醍醐味に満ちた一番に場内は大歓声。この場所、8勝7敗とわずか1点の勝ち越しながら、初の敢闘賞を受賞した。

 その後、幕内上位に進出して三役も経験し、昭和63(1988)年9月場所には200キロの横綱・大乃国を打っ棄(うっちゃ)って金星を挙げるなど健闘した一方で、横綱・大関陣と総当たりの地位では一度も勝ち越せなかった。2度目の三役となった平成元(1989)年1月場所は1勝14敗と惨敗。29歳という年齢もあり、ここが限界との声も聞かれた。

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著者プロフィール

  • 十枝慶二

    十枝慶二 (とえだ・けいじ)

    1966(昭和41)年生まれ、東京都出身。京都大学時代は相撲部に所属し、全国国公立大学対抗相撲大会個人戦で2連覇を果たす 。卒業後はベースボール・マガジン社に勤務し「月刊相撲」「月刊VANVAN相撲界」を編集。両誌の編集長も務め、約7年間勤務後に退社。教育関連企業での7年間の勤務を経て、フリーに。「月刊相撲」で、連載「相撲観戦がもっと楽しくなる 技の世界」、連載「アマ翔る!」(アマチュア相撲訪問記)などを執筆。著書に『だれかに話したくなる相撲のはなし』(海竜社)。

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