検索

【平成の名力士列伝:妙義龍】「テッポウ」と「母校の道場」を原点に度重なる試練を乗り越えた大相撲人生 (2ページ目)

  • 荒井太郎●取材・文 text by Arai Taro

【満身創痍からの度重なる復活劇】

 一躍、大関候補にも名乗りを上げたが、その後は右わき腹の負傷、左目網膜剥離の手術を受けるなど、困難が待ち受けていた。平成27(2015)年3月場所で小結に返り咲くと5場所連続で三役に在位したが、その座を明け渡すとなかなか三役復帰はならず、平成29(2017)年5月場所限りで34場所連続で守ってきた幕内の座も手放すことになった。

 同年11月場所、3場所ぶりとなる再入幕場所でもさらなる逆境が待っていた。6勝3敗と勝ち越しペースから4連敗。左膝の半月板損傷で残り2日を休場し、再び十両転落の憂き目に遭った。松葉杖が手放せない状態で、すぐさま患部の内視鏡手術を受けた。1週間後に退院するが、まともに歩くことすらできなかった。

「こんな状態で相撲が取れるのか」

 不安や焦りで気持ちが圧し潰されそうになると思い出すのが、無心で鉄砲柱に向かっていた高校時代の強くなる前の自身の姿だった。

「あの時のテッポウが自分の原点です」

 力士になっても幾度となく埼玉栄の道場を訪れていたのは、リハビリだけが目的ではなく、原点に立ち返るためでもあった。

「テッポウを打って、振り向いたら鏡があって、それを見ながら『ちょっとは体が大きくなったかな』とか思いながら、またテッポウを打つ。自分が高校生の時とまったく変わらない場所にすべてが当時のまま、あるんです。それがすごく懐かしい」

 現役バリバリの力士が間近でリハビリに励む姿は、高校生部員にとっても大きな刺激になっていたが、妙義龍も、ひたむきに稽古に打ち込む部員たちからパワーをもらっていたという。

「ただトレーニングするだけだったら、近所のジムでやればいい。車で何十分もかけて、敢えてそこでやることに意味があったんです」

 十両に陥落した場所は10勝を挙げて十両優勝し、1場所で幕内に返り咲くと、平成31(2019)年1月場所でおよそ3年ぶりに三役復帰。令和3(2021)年9月場所では千秋楽まで新横綱・照ノ富士と優勝を争い、11勝で実に49場所ぶりの三賞となる6度目の技能賞を獲得し、35歳を目前にして復活を遂げた。

 令和6(2024)年9月場所後、37歳で引退を表明。何度も脚光を浴びてきた一方で、キャリアの大半はケガを負うたびに、原点に立ち返ってこれを克服するという地道な作業の繰り返しでもあった。それでも最後は「ケガが多かったので、ケガに負けない気持ちでやってきた。まさかこの年までできるとは思わなかった。幸せな土俵生活でした」と、満面の笑みで力士人生を締めくくった。

【Profile】妙義龍泰成(みょうぎりゅう・やすなり)/昭和61(1986)年10月22日生まれ、兵庫県高砂市出身/本名:宮本泰成/しこ名履歴:宮本→妙義龍/所属:境川部屋/初土俵:平成21(2009)年5月場所/引退場所:令和6(2024)年9月場所/最高位:関脇

著者プロフィール

  • 荒井太郎

    荒井太郎 (あらい・たろう)

    1967年東京都生まれ。早稲田大学卒業。相撲ジャーナリストとして専門誌に取材執筆、連載も持つ。テレビ、ラジオ出演、コメント提供多数。『大相撲事件史』『大相撲あるある』『知れば知るほど大相撲』(舞の海氏との共著)、近著に横綱稀勢の里を描いた『愚直』など著書多数。相撲に関する書籍や番組の企画、監修なども手掛ける。早稲田大学エクステンションセンター講師、ヤフー大相撲公式コメンテーター。

2 / 2

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る