【平成の名力士列伝:妙義龍】「テッポウ」と「母校の道場」を原点に度重なる試練を乗り越えた大相撲人生
妙義龍は独自の型を追求し従来の押し相撲のイメージも変えた photo by Jiji Press
連載・平成の名力士列伝28:妙義龍
平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。
そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、大ケガ等の試練の連続にも独自の押し相撲で乗り越えてきた妙義龍を紹介する。
【相撲人生の原点であり続けた埼玉栄高の道場】
強豪・埼玉栄高から日本体育大を経て、幕下15枚目格付け出しで角界入り。大相撲の世界でも3場所連続を含む技能賞を6回受賞し、金星も6個獲得。関脇を通算8場所務めるなど、輝かしい実績を残した妙義龍は、経歴を振り返れば、まさしく"相撲エリート"だが、その足跡は順風満帆とは真逆の、試練に次ぐ試練の連続であった。
小2から相撲を始めたが、小学生時代は全国大会には出場できず、兵庫県予選で敗退。中学時代も全く無名の存在だった。名門の埼玉栄高に進学したが、同級生の豪栄道が1年生からレギュラーで活躍したのに対し、自身がコンスタントに試合に出場するようになるのは3年生になってから。それまではレギュラー陣が稽古をする土俵の傍らで四股、テッポウ、腕立て伏せといった基礎運動に黙々と打ち込む日々だった。
山田道紀監督からは入部早々「テッポウで日本一になれ」と言われた。当時はその真意もよくわからずに手の皮が剥け、血が滲んでも一心不乱に鉄砲柱を打ち続けた。
「高校時代の自分はテッポウで強くなったようなものです」と本人が語っている。高3の高校総体では団体優勝に貢献し、個人戦では高校横綱に輝いた澤井(豪栄道)に次ぐ2位となった。のちの妙義龍の礎は、埼玉栄の道場で築かれたのだった。
日体大時代は5個のタイトルを獲得すると平成21(2009)年5月場所、プロデビューを果たす。
入門後は所要4場所で関取に昇進するが、新十両場所2日目に左膝前十字靭帯損傷の重傷を負い、入門早々に力士生活は突然、暗転した。翌場所から3場所連続休場で番付は急降下。いきなりの挫折で不安ばかりが募ったが、前を向くことができたのは、約半年間に及ぶ母校・埼玉栄高でのリハビリ生活のおかげだった。
序二段も近い三段目94枚目から土俵復帰を果たすと(平成22/2010年9月場所)、破竹の勢いで番付を駆け上がり、平成23(2011)年11月場所は新入幕で10勝をマーク。翌場所は9勝で初の三賞となる技能賞を獲得した。
膝がしっかり曲がった低い体勢のままで相手を一気に押し込む速攻の押し相撲は、妙義龍独特のスタイルだ。異様に盛り上がったふくらはぎは、鍛錬に鍛錬を重ねた下半身強化の証でもあった。入幕4場所目から3場所連続技能賞を獲得。アスリート然とした男によって、従来の押し相撲のイメージは一新されたと言っても過言ではなかった。
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著者プロフィール
荒井太郎 (あらい・たろう)
1967年東京都生まれ。早稲田大学卒業。相撲ジャーナリストとして専門誌に取材執筆、連載も持つ。テレビ、ラジオ出演、コメント提供多数。『大相撲事件史』『大相撲あるある』『知れば知るほど大相撲』(舞の海氏との共著)、近著に横綱稀勢の里を描いた『愚直』など著書多数。相撲に関する書籍や番組の企画、監修なども手掛ける。早稲田大学エクステンションセンター講師、ヤフー大相撲公式コメンテーター。