陸上20km競歩・山西利和の東京五輪プレイバック:世界王者が手にした反省ずくめの五輪銅メダル その悔しさを糧に翌年は再び世界一に (3ページ目)
【失敗の銅メダルを糧に再び世界王者に】
スタノは、気温30度で湿度も高い気象条件も「18年と19年には日本で合宿もしていたし、この気象条件は大好きで他のレースほど難しくはなかった」と、しっかり準備できていた結果だったと語った。
2位の池田は、ハイペースの競り合いになった終盤に歩型が崩れ、レッドカードを立て続けに2枚出されたが(レッドカード3枚で2分間のピットイン。4枚で失格)、「安全策を取ってペースダウンすれば後悔するので、最後は強気にいった。もちろん前には金メダルの選手はいたが、まずはメダルという形で結果を残すことができて素直にうれしい」と話した。
ゴール後、スタノはコースを振り返って立ち止まり、山西がゴールをするとその姿に向かってお辞儀をし、自ら歩み寄って握手を求めた。世界王者・山西へのリスペクトの気持ちを感じさせるシーンだった。
「細かいレースの進め方や立ち回りだけを見れば、ちょっと無駄が多すぎました。それ以前に、五輪の金を獲ると設定してどうアプローチしていくかで、『これで勝てる』と想定した部分に自分の甘さがあった。それがすべてだったと思います。この銅メダルを経験のひとつにするという表現はしたくないけど、今は本当に不甲斐ないです。『こんなもんじゃないよ』とも思うけど、次に向けて粛々と自分の弱さや甘さと向き合い、それをクリアしていくことがこれからにつながっていくと思います」
反省の弁ばかりが目立った山西だが、五輪競歩では池田との日本初のダブルメダル。東京五輪の陸上競技では唯一のメダル獲得種目だった。
のちになって山西は、東京五輪をこう振り返っていた。
「コロナ禍もうまく乗り越えられて、世界王者として勝ちにいかなければと少し気負っていたけど、(19年世界陸上の)ドーハと同じことをしてしまった。周りからの見られ方も(世界陸上の優勝以降)変わっているし、周囲から求められているものも変わってきているのに、同じことをしてしまった。そのギャップに自分が対処できなかったというか、自分が焦っちゃったというか。それを受けて、『あぁ、同じことしていては駄目だな』と痛切に感じました」
山西は翌22年、東京五輪での悔しさを晴らしてみせる。3月の世界チーム競歩選手権では2位の池田に37秒差をつける完勝。「金メダルを目指した取り組みをしているからこそ、8割の確率で3位以内には入れる」という自信を胸に挑んだ8月の世界陸上オレゴン大会では、3年前のドーハ大会に続き2連覇を達成した。
「世界王者という肩書きは、最初は本当に関係ないと思っていました。でも、東京五輪でああいう感じで負けたことで、それを背負ったうえで勝てるようにならなければいけないと思った。求められていることから目を逸らしたり、自分のスタンスを貫き続けて同じところに居続けてしまおうとするとよくないと思って。元にいたところに回帰してしまうと成長がなくなってしまうので、精神面を変革させて......。『何かを背負ってでも勝ちにいきたい』というスタンスの意識を生み出せた結果だと思います」
毎年同じようなスケジュールをこなすなかで、1年前の自分に回帰しないようにするためには螺旋階段を上り続けるしかないという山西。東京五輪の苦い敗戦は、彼にとって"本物の王者の強さ"を目指すための原動力になった。
だが、今年2月に行なわれたパリ五輪の代表選考会では敗退。現在28歳の山西は再び、世界大会レベルの戦いの場に戻ってくるのかどうか。今は、稀代のウォーカーの動向を待つしかない。
著者プロフィール
折山淑美 (おりやま・としみ)
スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。1992年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、夏季・冬季ともに多数の大会をリポートしている。フィギュアスケート取材は1994年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追う。
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