「ホント天国か地獄かって感じですね」。アーチェリーの銅メダリスト武藤弘樹が振り返る責任重大のあの場面 (2ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by JMPA

 それまでは練習をサボることもあったが、真面目に練習に取り組んだ。それから、どれほどの練習をこなしたのか。部室のホワイトボードには、武藤が中2の時、1日の練習で721本の矢を射った記録が残されている。

「その時は、朝7時ごろに射ち始めて、夕方4時過ぎまでやっていました。疲れますし、キツいですけど、本数を射つと人間の体はラクに射とうとするので、ムダな力がそぎ落とされて、より洗練された射ち方になるんです。それを目的にたくさん射っていました」

 さらに自宅の和室を改造して、射場にした。

 慶応大学に入学してからも授業を受ける湘南藤沢キャンパスから射場のある日吉キャンパスまで1時間半かけて通い、夕方4時ぐらいに練習をスタートさせた。射場はキャンパスの奥の高台にある。徐々に街の明かりがつき、やがて消えていく。理工学部の棟だけが煌々と明かりが灯っているのを見て、「頑張っているな」と思いつつ、午前0時ごろまで矢を射ち続けた。

 そこまで武藤をアーチェリーに駆り立てたのは、何だったのだろうか。

「僕は、五輪に出たいとか、そういう大きな目標があるからではなく、ただ単に負けたくないんですよ。中1の時に同級生に負けて、負けるのはイヤだと思ったし、全国大会でボロ負けして、もう負けたくないと思った。その気持ちだけでやってきたんです」

 慶応大学時代は、中学の時以上に「練習の虫」になって、腕を磨いた。だが、大学4年になり、アーチェリー部の仲間は卒業とともにやめていく人がほとんどだった。アーチェリーだけでは食べてはいけない以上、武藤も普通に就職して競技を続けていくことを選択した。

「トヨタ自動車に内定をもらった時、僕はアスリート枠ではなく、普通の正社員としてでした。社員になりつつ、アーチェリーを楽しめたらいいなっていう感覚だったんです。でも、面接で学生時代に取り組んできたことを話しているうちに、アーチェリーの日本代表ということがバレて(苦笑)。普通に内定が決まったあとに、アスリート担当の人に話が回って、会社にすごく助けられましたね」

 入社後は、コロナ禍の影響でリモートワークが主になり、練習時間を確保できた。そうして、東京五輪に向けて、武藤は着々と準備を進めていったのである。

2 / 4

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る