フェンシング太田雄貴、北京五輪銀メダルの裏にあった「背水の陣」 (2ページ目)

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by AFLO

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 08年3月末までの五輪出場枠獲得レースが始まった、07年4月以降、太田は9月には世界ランキングを5位まで上げて好調だった。たが、9月末の世界選手権をベスト16で終えたあたりから、自分の歯車が狂い出したように感じていた。

 07年前半はディフェンスを中心にして、その中にアタックを入れるスタイルで結果を出してきた。しかし、世界選手権ではアタックでほとんどポイントを取れず、負けるはずがないと思っていた相手にも負けてしまった。そこで迷いが出て年が明けて08年からは、アタック中心で行くと決めたが結果の波は大きく、ポイントレース終了時にはランキング7位に。日本としては2番手の千田健太を含めた2枠獲得は果たしたが、太田本人は自信を失っていた。

 さらに追い打ちをかけるように、5月からの遠征では不調に陥り、ランキングも10位まで下降。3月に大学を卒業したあとは無職の状態だった。「北京五輪後はどうしよう......」という心の迷いもあり、自分が目指していたフェンシングスタイルも忘れてしまっていた。

 そうした状態から脱することができたのは、6月に入ってからだった。それまでは絶対に見たことがなかった自分の負け試合の映像を見て、07年と08年はまったく違ったフェンシングをしていたことに気がついたのだ。大田は、「北京五輪は絶対に攻めないでディフェンスで行こう」と決めた。

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