ベテラン記者は見た。「日本の金メダル候補3人」が散った長野の悲哀 (3ページ目)

  • photo by Kyodo News

 この斉藤・岡部と葛西のように、長野では実力が伯仲する日本人選手の明暗が分かれる競技が多かった。そのひとつが、スピードスケート男子の堀井学と清水宏保だ。

 2人はリレハンメル五輪にも出場し、その時は500mで堀井が銅メダルを獲得、清水は5位入賞を果たす。その後も両雄のデッドヒートは続き、W杯のシーズン総合優勝を年ごとに分け合いながら、1996年3月には500mで清水が、1000mで堀井が世界記録をマークした。

 長野五輪代表への内定は清水のほうが早かったものの、五輪シーズンを最高の形でスタートさせたのは堀井だった。1997年11月のW杯で、またも1000mの世界記録を更新し、W杯の通算優勝数を日本人最高の21勝に伸ばしたのだ。

 しかし堀井は、この年から多くの選手が使い始めたスラップスケート(刃のかかと部分が固定されていないスケート靴)への適応が遅れ、成績に陰りが見えはじめる。結局は長野五輪の本番にも間に合わず、500m、1000mともに2けた順位の惨敗。一方の清水は、1000mで銅メダル、500mでは五輪新記録を叩き出して金メダルを獲得した。

 この差を生んだのは、2人の調整の仕方にあったのではないかと思う。ともにストイックであることは共通しているが、どちらかというと清水は感覚派で、堀井は理論派のスケーターだった。最も速い滑り方を自分が納得できるまで考える堀井にとって、スラップスケートで自分の滑りに100%の自信を持つまでには時間が足りなかったのだろう。

 さまざまなルール変更は五輪につきものとはいえ、これほど直前に道具が変わるというのは選手にとって酷な話だ。その後もスラップスケートにはフィットしなかったが、堀井は不満を漏らすことなく競技を続け、2002年のソルトレイクシティ五輪で現役を引退した。

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