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日本ボクシング世界王者列伝:川島郭志「アンタッチャブル」と称された魅せる守りの裏にあった「打たれないで倒す」の本質 (3ページ目)

  • 宮崎正博●文 text by Miyazaki Masahiro

【打たせないこと----戦いの究極の哲学】

 1994年5月4日、横浜文化体育館。川島はWBC世界スーパーフライ級チャンピオン、ホセ・ルイス・ブエノ(メキシコ)に挑む。与しやすい相手ではない。攻撃的、かつテクニカル。24歳とまだ成長期にあり、つい半年前に豪打で知られた文成吉(ムン・スンギル=韓国)を敵地で破ってベルトを手にした勢いもあった。そして何より、その後も含めると30人以上もの世界チャンピオンを育てた名伯楽ナチョ・ベリスタインの教え子である。

 戦いはペース争いが続いた。海外のメディアではクロスファイト、あるいはブエノ優位の展開という評も見かけるが、私にはそうは見えなかった。厳しい技術戦のなかでも、着実に主導権を握っていたのは、堅実な守りに裏打ちされた川島の正確なヒットだったと思う。そして11回、左ストレートで痛烈なダウンを奪い、勝利を決定的なものにした。

 その後は力のある挑戦者が立ち向かってきた。初防衛戦は五輪代表経験もあるカルロス・サラサール(アルゼンチン)。その後にWBOフライ級、IBFスーパーフライ級の王者にもなるサウスポーは、しぶとく食い下がってくる。続いてブエノとの再戦。3度目の防衛戦は一発強打に定評があった李承九(イ・スング=韓国)、ひとつおいて33勝中28KOを誇るセシリオ・エスピノ(メキシコ)と難敵が続く。だが、川島は李との10ラウンド、不用意に右を浴びて痛烈なダウンを喫した以外は、危なげなく防衛を重ねた。

 7度目の防衛戦(1997年2月20日)、最強の相手と目されたサウスポーのジェリー・ペニャロサ(フィリピン)と中盤まで互角に戦いながら、終盤に追い込まれて判定負け。すると、視力低下を理由に、そのまま引退の道を選んだ。

『ボクシング・マガジン』誌では、有力な指導者に、海外のトップ選手の技術を分析してもらう連載企画があった。川島にも幾人ものボクサーを分析してもらった。記憶に残るのは、そのうちのひとりについて激しく反応したことだ。ギジェルモ・リゴンドー(キューバ)だった。2000年シドニー、2004年アテネと2大会連続のオリンピック・バンタム級金メダリストで、史上最強のアマチュアボクサーとも言われたサウスポーだ。少なくとも、相手に打たせない感性、技術については、ナンバーワンと言っても差し支えない。

 このカリビアンはアームブロックも上手だが、そもそも体に触らせない。上体の動きを絶やさず、すばやく、的確なステップに乗せ、完璧に身を守り、そして効果的な一打でポイントを積み上げた。川島の評価は絶賛に等しかった。数カ月後、川島ジムを訪れると壁の大型テレビにリゴンドーの戦う様子が映し出されている。その動きを頭に入れて、練習してほしいと願いをこめたのだという。

 やはり、川島ボクシングの真髄は、しっかりと自分を守り抜くという前提に成り立っていると確信した。打たせなければ、決して負けることはない。うまく打撃の機会を見つければ、いつでもノックアウトのチャンスは見つかるのだ。

 Art of self defenseーーボクシングの別名である。その真意を知り、プロボクシングという競技にさらに深く埋めこむこと。ふたつの大事な命をリングで失った、日本ボクシング界の悲しい夏だからこそ、川島郭志のボクシングとともに、学ばなければならないことがある。

Profile
かわしま・ひろし●1970年3月27日生まれ、徳島県海部郡海部町(現・海陽町)出身。父の方針で幼少期からボクシングを始める。海南高校時代、インターハイ・フライ級で優勝。逸材として相模原ヨネクラジムから1988年にプロ転向した(その後、系列ジムのヨネクラジムに移籍)。キャリア序盤の敗戦、負傷によるブランクを乗り越えて、1992年に日本スーパーフライ級タイトルを獲得。圧倒的な強さで3連続KO防衛後、満を持して世界に挑戦した。1994年、ホセ・ルイス・ブエノ(メキシコ)に判定勝ちし、WBC世界スーパーフライ級王者に。6度防衛後、タイトルを失ったのを機に引退した。現在は東京都大田区に川島ボクシングジムを開き、後進の指導にあたっている。身長165cm。左のボクサー型。24戦20勝(14KO)3敗1分。

著者プロフィール

  • 宮崎正博

    宮崎正博 (みやざき・まさひろ)

    20歳代にボクシングの取材を開始。1984年にベースボールマガジン社に入社、ボクシング・マガジン編集部に配属された。その後、フリーに転身し、野球など多数のスポーツを取材、CSボクシング番組の解説もつとめる。2005年にボクシング・マガジンに復帰し、編集長を経て、再びフリーランスに。現在は郷里の山口県に在住。

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