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日本ボクシング世界王者列伝:川島郭志「アンタッチャブル」と称された魅せる守りの裏にあった「打たれないで倒す」の本質 (2ページ目)

  • 宮崎正博●文 text by Miyazaki Masahiro

【完成度の高い高校生ボクサーが知った挫折】

 いまどき、父と子の二重奏でボクサーとしての大成を目指すことは珍しいことではない。兄弟3人が世界王者となった亀田家、そして最強のボクサーと、堅実な実力派王者を育った井上家。海外にも世界1位の祖父と世界王者の孫が登場したマンシーニ家三代(米国)、初の親子世界王者となったグティ・エスパダス(メキシコ=父子は同名)などよくあるケースなのだが、日本ではなかなかボクシングファミリーは根づかなかった。だから、川島家はそんなパイオニアとも言えるものだった。

 トレーニングを始めたのは物心がつく以前だったという。生まれの徳島県はボクシングはまさに不毛の地に近かったが、理髪店を経営する父・郭伸が熱烈なボクシングファンだった。息子たちを世界チャンピオンにしたいと、後にプロになる兄・志伸とともに郭志にも"特訓"の日々を強いた。

 幼年期から積み立てた経験が花開くのは高校生の時だ。海南高校3年生で出場したインターハイフライ級準決勝で、2年生時にチャンピオンになったのちの世界王者、鬼塚隆(勝也/豊国学園)、決勝ではプロでピューマと名乗る渡久地隆人(興南)を破って優勝する。その強さ、巧さは当時からとんでもなくハイレベルだった。歯切れのいい攻めが持ち味の鬼塚に何もさせずに完封。決勝の渡久地戦でも、相手の出方を最初の2分間で読み解き、その後はタイムリーヒットを連発していった。これが高校生のボクシングかと驚くほど、攻防ともどもに大人びていた。

 高校卒業後は、相模原ヨネクラジムからプロ入りするが、東京・目白にあったヨネクラジムで修行を重ねた(その後、正式に移籍)。ただし、キャリア序盤の大きな躓(つまず)きで、一緒にプロ入りした鬼塚、渡久地に比べると大きく後れを取った。さらに左拳を骨折し、1年以上ものブランクを作り、ファンにも忘れ去られた。デビュー当初、鬼塚、渡久地とともに『平成三羽ガラス』の一角を占めていたのだが、その座は辰吉丈一郎(大阪帝拳)に取って代わられる。カムバック以降に6連勝5KO、その間、日本王座獲得、そして3度防衛と実績を重ね、ようやく世界戦にたどり着くのに4年もの歳月を要した。

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