藤波辰爾「一歩間違ったらレスラー生命が終わっていた」。前田日明との失明寸前の激闘 (2ページ目)

  • 松岡健治●取材・文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by Moritsuna Kimura/AFLO

 当時の前田はデビュー前の練習生。仰天の初対面だったが、デビュー後の前田は、身長192cmと恵まれた体格を生かして早くから頭角を現す。1982年2月からは初めての海外武者修行でイギリスに行き、ヨーロッパヘビー級王座を奪取。そして1983年4月、アントニオ猪木が提唱した「世界中のベルトを統一する」という理想の下で行なわれたリーグ戦「IWGP」に、欧州代表として凱旋帰国した。

 一気にスター選手の仲間入りを果たした......と思われたが、前田は翌年4月に新団体「UWF」に移籍する。藤原喜明、佐山聡らと共に、キックと関節技を主体とする先鋭的なスタイルを推進した。

 しかし団体は経営難に追い込まれて新日本プロレスと提携し、1986年から「UWF軍団」として新日本勢と対峙する展開となった。UWF勢は、それまでのプロレスのように相手の技を受けることなく、相手の顔面への蹴りなど危険な技を連発。ケガのリスクが高いスタイルに新日本勢は不満を抱き、リング上だけでなくリング外でも険悪なムードが漂っていた。

 その対立軸の中で実現したのが、大阪城ホールでの「藤波vs前田」だった。

 試合は、IWGPチャンピオンシリーズで行なわれた。このリーグ戦は、前年まで全選手の総当たり制だったが、この年は選手が2ブロックに分けられた。藤波と前田は同じBブロックに、猪木はもう一方のAブロックに入った。

「新日本としては、『危険な技を仕掛ける前田と猪木さんを戦わせるわけにはいかない』と考えたんだと思います。ただ、団体としてUWFを受け入れた以上、誰かが前田と対峙しなくてはいけなかった。そうでないと、新日本が成り立たない。『ここは自分がいくしかないな』と思いました」

 試合は、前述したように凄まじい攻防となり、藤波は現在も残る深い傷を負った。試合後の控室では、藤波にケガをさせた前田に憤る選手が何人もいたという。

「何人かの選手が前田に怒り、いきり立っている状態でした。だけど僕は、『そんなに騒ぐ問題じゃない』となだめました。彼は既存のプロレスを壊そうとして新日本にきた。逆に言えば、そういう方法でしかUWFという団体をアピールできない、生き残ることができないと考えていたんだと思います。その部分は、同じレスラーだからわかるところではあるんですが......ただ、振り返ると、一歩間違ったら僕のレスラー生命が終わっていた試合でしたね」

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