内柴正人はアテネ五輪柔道66kg級金メダル獲得になぜ感動できなかったのか (2ページ目)

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by PHOTO KISHIMOTO

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 そして、アテネ五輪の66kg級代表へ向けた戦いの第一歩となる03年11月の講道館杯で優勝し、翌年2月にはドイツ国際でも優勝した。さらに、五輪最終選考会だった04年4月の全日本選抜選手権でも勝利して、初の五輪代表の座を手にした。

 やっと出場がかなった五輪だったが、内柴はまったく緊張しなかった。遊びに行くような気持ちで、試合の日が来ても楽しくてしかたなかった。五輪前の強化合宿では、勝ちたくてしかたない憧れの選手だった野村を質問攻めにした。そして、技術だけではなく、五輪で勝つ秘訣を「腹を決めること」だと教えられた。それを心に刻んで臨んだ試合では、自身のひらめきを信じるのびのびした戦いを貫くことができた。

 1回戦は多彩な技を繰り出して攻め続けると、払い腰を見事に決め、1分55秒で一本勝ち。2回戦はアジア選手権で一本負けしているダシュダバ(モンゴル)が相手だったが、矢継ぎ早に技を繰り出して相手を圧倒。2分ちょうどに巴投げで一本勝ちした。

 勢いはさらに加速していった。準々決勝はジャハロフ(ロシア)の右釣り手を外側から決めたまま押し込んで、1分40秒に浮き落としで一本勝ち。準決勝のゲオリギエフ(ブルガリア)も巴投げで崩したあと、起き際に相手の下にもぐり込んでそのまま肩車で倒し、43秒で勝負を決めた。

 決勝ではクランツ(スロバキア)の大外刈りを抱えるようにして防ぐと、そこからもつれあったところで小外刈りを放って相手の背中を畳に付け、1分46秒で勝利した。5試合ですべて違う技での一本勝ち。内柴は、出身校・国士舘大の粘りとしつこさを身上とする柔道を貫き、あっさりと金メダルを獲得した。

 その数日後に話を聞くと、内柴は開口一番に「決勝は、カッコ悪い形になりましたけどね」と苦笑いを見せた。

「練習していた袖つり込みと足払いをイメージしていたから、自分の理想とする技で投げられなかったのはちょっと悔しいですね。でも、彼(クランツ)が決勝まで来たのがすごいだけで、実際にはあまり強い選手ではなかった。偶然と言えば偶然だけど、自分のほうが強いからああいうふうになったんです。準々決勝で戦ったジャハロフとか、3位になったアレンシビア(キューバ)のほうが強いですよ」

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