【国際プロレス伝】阿修羅・原は超人だ。大きな魚も頭から骨ごとガブリ (2ページ目)

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by AFLO

 そのくせ、呑んでも暴れたりせずに静かでね。まるでチャールズ・ブロンソンみたい。口ひげも生やしていましたしね。だから、女性にモテた。僕は呑むと大声を出して馬鹿するだけだから、全然モテなかったんですけど。原ちゃんは内臓も強かったんでしょうね。酔ったところ、見たことないですよ」

 1981年になると、原はWWUジュニア王座を返上し、本格的にヘビー級に転向。5月16日の後楽園ホールではマイティ井上と組んでポール・エラリング&テリー・ラザン組を撃破し、IWA世界タッグ王座に輝いた。このタイトルマッチは金網タッグ・デスマッチだったが、原は国際プロレスの目玉だった金網デスマッチやチェーン・デスマッチを数多くこなし、その人気を高めていった。

 そして国際プロレス最後の興行前日の1981年8月8日、北海道・根室市青少年センターにおいて阿修羅・原&マイティ井上組はテリー・ギッブス&ジェリー・オーツ組を金網タッグ・デスマッチで破り、IWA世界タッグの王座を防衛。この試合が、国際プロレス最後のタイトルマッチとなった。

 国際プロレス解散を受け、原は引退して長崎に帰郷しようと考えていたが、ジャイアント馬場に引き留められて全日本プロレスに参加する。同時に全日本へ移った井上とのコンビでアジアタッグ王座を獲得するなど活躍し、1987年からは天龍源一郎と「天龍同盟」を結成。天龍とのタッグ「龍原砲」は無敵の強さを誇り、全日本プロレスの人気を支えた。

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