解散から35年──。キミは「国際プロレス」を知っているか? (2ページ目)

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • 佐野美樹●撮影 photo by Sano Miki

 吉原は国際・全日本・新日本の3団体が潰し合うことなく共存共栄を図れるよう、日本プロレスリング協会の設立を画策した一方で、プロレス界を改革しようと新機軸を次々と打ち出し、馬場や猪木とは違った独自路線で挑んだ。

 文書による選手契約、選手それぞれの入場テーマ曲選定、専用バスでの移動......。今では当たり前となったこれらの手法は、国際プロレスが日本のプロレス団体として初めて導入したものだ。それまでアメリカ一辺倒だった外国人選手も、新たにヨーロッパルートを開拓し、フランスやイギリス、ドイツなどから大物レスラーを招聘することにも成功している。

 1973年には、IWA世界ヘビー級チャンピオンのストロング小林とラッシャー木村の同門タイトルマッチも実現。日本のトップレスラー同士が対戦したのは、1954年の力道山vs木村政彦戦以来、実に19年ぶりであり、プロレス史に残るビッグカードとなった。

 さらに金網デスマッチも、日本で初めて実施した。ストロング小林が新日本プロレスに移籍した後、エースとして君臨したラッシャー木村は"金網デスマッチの鬼"と呼ばれ、金網デスマッチは国際プロレスのドル箱企画となった。そうしたことはすべて、プロレスを心の底から愛し、時代を見通す先見の明があり、選手を大切にした吉原の功績といっていいだろう。

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