NBA伝説の名選手:ディケンベ・ムトンボ コート外の人道的活動含めて世界に影響を与えた「リング下の守護神」

  • 青木 崇●文 text by Aoki Takashi

リング近辺のディフェンス力で一時代を築いたムトンボ photo by Getty Imagesリング近辺のディフェンス力で一時代を築いたムトンボ photo by Getty Images

NBAレジェンズ連載20:ディケンベ・ムトンボ

プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

第20回は、NBA史に残るディフェンダーとして名を残し、オフコートでは人道面での活動で世界に影響を与えたディケンベ・ムトンボを紹介する。

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【医師の夢をあきらめ一流の選手の道へ】

 ディケンベ・ムトンボはバスケットボール選手としてだけではなく、人道的な取り組みなど、オフコートでも世界中で大きなインパクトをもたらした人物だ。

 父親が学校の校長、ザイール(現コンゴ民主共和国)の教育機関で働いていた影響もあり、ムトンボは8人の兄弟姉妹とともに、学業で好成績を残さなければならない少年時代を過ごす。なかでもムトンボは勉強熱心で、医師になることを夢見ていた。高校の最終学年には国際科学コンテストで優勝。アメリカの政府独立機関から学術奨学金を提供され、医師になるための進学で21歳の時に渡米する。

 ムトンボが子どものころにやっていたスポーツは、サッカーとマーシャルアーツだった。しかし、身長が高くなったことで父や兄たちからの勧めもあり、16歳の時にバスケットボールに専念することを決断。アフリカから背の高い子がやってくると聞いたジョージタウン大は、バスケットボールチームを率いるジョン・トンプソンコーチがムトンボと会って話をした結果、奨学金をもらうアスリートとしてプレーすることになる。

 しかし、バスケットボールと医学部の勉強を両立する時間がないと大学側が言及したことにより、医師になる夢の実現が難しくなった。

「とてもガッカリした。両方できると思っていたが、それは不可能だと言われたんだ」

 ムトンボは当時を、こう振り返る。

 元NBAのセンターで、パトリック・ユーイング(元ニューヨーク・ニックスほか)を育てた実績があるトンプソンコーチの存在は、ムトンボが選手として成長するうえで大きな意味があった。218cmの身長と長い腕を活かしたブロックショットが武器のセンターとなり、1988-89シーズンのセント・ジョンズ大戦でNCAA史上最多となる12本を記録。アロンゾ・モーニング(元マイアミ・ヒートほか)と形成したツインタワーは、対戦相手にとって脅威でしかなかった。

 1990年と1991年(モーニングと同時選出)にビッグイースト・カンファレンスの年間最優秀選手賞を受賞したムトンボだが、NCAAトーナメント(全米大学選手権)ではファイナルフォー(ベスト4)の舞台に立つことができなかった。しかし、大学のラストシーズンでは1試合平均15.2点、12.2リバウンド、4.7ブロックショットを記録。1991年のNBAドラフト1巡目4位でデンバー・ナゲッツに指名されたムトンボは、言語学と外交学の学士号を取得して卒業したあと、25歳でNBA選手としてのキャリアをスタートした。

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著者プロフィール

  • 青木 崇

    青木 崇 (あおき・たかし)

    1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。

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