いぶし銀のデイモン・ヒル、
1996年の鈴鹿でビルヌーブを退け初戴冠 (2ページ目)
名門ウイリアムズのステアリングを握りながらも2年連続でシューマッハに完敗を喫したヒルと、驚異の新人ビルヌーブ。シューマッハが低迷するフェラーリに移籍し、チーム再建に献身する道を選んだことで、1996年はそんな対照的なふたりの二世ドライバー対決となったのだ。
その年、ヒルに対する世間の風当たりは強く、地元イギリスのメディアさえも批判を展開。チームからも放出を決められ、厳しいプレッシャーと戦いながらシーズンを戦わなければならなかった。
それでも、ヒルは転がり込んできた開幕戦の勝利を皮切りに開幕3連勝を成し遂げ、ビルヌーブは4戦目にしてF1初優勝を挙げるが、選手権はヒルがリードしていった。両肩に圧しかかる重圧に晒(さら)されながらも突き進むことができるほど、ヒルは強くなっていた。ビルヌーブはただの新人ではなく、彼が遅かったのではない。ヒルが速く、強かったのだ。
この年からオーストラリアGPがアデレードからメルボルンへと移り、3月に開幕戦として行なわれた。その結果、日本GPはシーズン終盤唯一のフライアウェイ戦となり、最終戦として開催されることになった。
ビルヌーブは直前のエストリル(第15戦・ポルトガルGP)で華麗な走りを見せて勝利をもぎ取り、9ポイント差でチャンピオン争いをなんとか最終戦の鈴鹿に持ち込ませた。勝利数は6勝対5勝で、ヒル優勢。ビルヌーブが逆転で王座を獲得するためには、優勝して、ヒルが無得点に終わらなければならない。逆にヒルは1ポイントでも獲れば、ビルヌーブの順位に関係なく戴冠が決まる圧倒的有利な立場だ。
しかし、当時のポイントシステムは優勝10ポイントから6位1ポイントまで。背後にはフェラーリ、ベネトン、マクラーレンなどが控えている状況を考えれば、ひとつのミスでポイント圏外まで落ちることも十分にあり得た。さらに予選ではビルヌーブにポールポジションを奪われ、ヒルは2番グリッドから決勝に臨まなければならなかった。
2 / 4