【欧州サッカー】やせっぽちの少年が名選手となり名将へ グアルディオラがいなければフットボールの進化は遅れていた (2ページ目)
【クライフに見出された男】
怨敵レアル・マドリードが6回もCLを制しているのに対し、カタルーニャの名門は一度もヨーロッパの頂点に立っていなかった。FWラディスラオ・クバラ、FWゾルターン・チボル、FWエヴァリストといった名手を擁した1960-61シーズンは決勝でベンフィカに2‐3の敗北。1985‐86シーズンのファイナルではステアウア・ブカレストのGKヘルムート・ドゥカダムにPK戦で4本も止められ、大魚を逸した。
だが、潮目は1988-89シーズンから変わり始めていた。ヨハン・クライフ政権の発足である。トータルフットボールの信奉者が指揮官に着任したことによって、1988-89シーズンにカップウィナーズカップ、1989-90シーズンにコパ・デル・レイ、1990-91シーズンはラ・リーガ、そして1991‐92シーズンもリーグ連覇を成し遂げている。
「ボールをキープしてさえいれば失点しない」というクライフ監督の哲学のもと、バルセロナは魅惑のアタッキング・フットボールで1991‐92シーズンのCL決勝に進出した。
対戦相手はサンプドリアである。FWジャンルカ・ヴィアッリ、MFトニーニョ・セレーゾ、MFアッティリオ・ロンバルド、DFピエトロ・ヴィエルコウッドなど、結果のみを求めていた当時のカルチョ・イタリアーノに適した猛者が顔を連ねる強豪だ。バルセロナとは対極に位置し、下馬評は「サンプドリアやや有利」だったと記憶している。
多くの決勝がそうであるように、この一戦も見せ場は多くなかった。決勝ゴールはロナルド・クーマンの20メートル中距離砲だ。バルセロナは堅苦しそうに映った。しかし、ある程度の主導権を握れたのは、中盤の底に位置するグアルディオラのペース配分によるものだった。
チャンスの数が限られた場合、どうしても前がかりになる。ゴールへの近道を選択しようとするFWフリスト・ストイチコフ、FWフリオ・サリナス、MFミカエル・ラウドルップを、グアルディオラは彼らの気配とパススピードで牽制していた。
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