中田英寿、セリエA制覇から20年。日本人の価値を高めた圧倒的存在 (2ページ目)

  • 中山淳●取材・文 text by Nakayama Atsushi
  • photo by AFLO

 中田が欧州に渡った時代は、1970年代と比較して大きく様変わりした。

 1993年のJリーグ開幕を機に日本サッカーはプロ化が浸透し、カズ(三浦知良)が1993−1994シーズンにセリエAの古豪ジェノアに移籍したことによって、多くの日本人が海外サッカーに目を向けていた時代である。ローマの中田がリーグ優勝を遂げたパルマ戦は、日本の雑誌や新聞、ニュース番組でも大きく取り上げられた。

 もっとも、ペルージャから強豪ローマに移籍して2年目を迎えていた中田にとって、そのシーズンは決して順風満帆だったわけではなかった。

 当時ローマを率いていたファビオ・カペッロ監督は、スクデット獲得に本腰を入れるべく開幕前に大幅な戦力補強を断行。前年から抱えていた選手層の問題を解消し、優勝を狙えるだけの豪華なメンバーを揃えることに成功していた。

 当時のレギュラーは、GKフランチェスコ・アントニオーリ以下、3−4−1−2の最終ラインにジョナサン・ゼビナ(フランス代表)、ワルテル・サムエル(アルゼンチン代表)、ザーゴ(ブラジル代表)、アウダイール(ブラジル代表)。両ウイングバックはカフー(ブラジル代表)とヴァンサン・カンデラ(フランス代表)、中盤センターにはイタリア代表コンビのダミアーノ・トンマージとクリスティアーノ・ザネッティがいた。

 2トップには、ガブリエル・バティストゥータ(アルゼンチン代表)、マルコ・デルヴェッキオ(イタリア代表)、もしくはヴィンチェンツォ・モンテッラ(イタリア代表)。そしてトップ下には、中田のライバルとして立ちはだかったローマの「プリンチペ(王子)」ことフランチェスコ・トッティが君臨。

 これだけの猛者が集うなか、中田の出場機会は限られ、外国人枠の問題によってメンバー外を強いられた試合も少なくなかった。それでも、カペッロ監督が「ファンタジーならトッティ、確実性なら中田」と評したように、中田がチーム内で重要戦力として認められていたことも確かだった。

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