ベンゲルが振り返る自らのサッカー人生。「他のすべてを犠牲にした」 (2ページ目)

  • サイモン・クーパー●文 text by Simon Kuper
  • 森田浩之●訳 translation by Morita Hiroyuki

「家で戦争の話をすることは、ほとんどなかった。タブーになっているような感じだった」

 ベンゲルの両親はビストロを営み、仕事漬けの父は自動車部品のビジネスもしていた。両親は14歳の時から働きづめだった。

「私には『家族』という言葉の意味がわかっていなかった」と、ベンゲルは自伝に書いている。「食事は別々だったし、ほとんど話もしなかった」

 ベンゲルは両親のビストロで、大人に囲まれて育った。地元の農民たちが語り、笑い、嘘をつき、酔っ払い、時には口論するのを目の当たりにしていた。そのころダットレンハイムの人々は、まだアルザス系のドイツ語方言を話していた(ベンゲルはフランス語を学校で学んでいる)。ビストロで一番の話題は、もちろんフットボールだった。

 ベンゲルは自らの人生の選択について、こう語った。

「子どものころ、周りの大人たちはフットボールの話ばかりしていた。だから『人生で大事なことはこれだけなんだ。みんながその話ばかりしているのだから』と思った」

 ダットレンハイムはベンゲルに、ドイツとの結びつきももたらした。村を併合した過去からドイツを憎む人たちもいたが、ベンゲルはそんなことはなかった。「ライン川の向こうに住む人は、どうしてこんなに違うのだろうと思っていた。なかでもフットボールだ。あのころのドイツ人はとてもうまかった。フランス人よりうまかった」

 ベンゲルはアルザス最大のクラブであるラシン・ストラスブールに加入したが、たいていはベンチを温めた。キャリアを通じて彼は、テクニック不足に悩まされた。ダットレンハイムでまともな指導者にも出会えず、でこぼこのグラウンドでプレーしていれば、そうなるのも当然だった。

◆「連載・ベンゲルがいた名古屋グランパス」>>

 この経験が後の仕事の選択に影響したのかもしれない。ベンゲルは1974年にストラスブール大学で経済学の学位を取ったが、ずっとフットボールのコーチになろうと思っていた。フットボールを見るためにドイツまで車を走らせ、試合前のウォームアップからずっと見続け、家に帰るのは朝の5時ということもあった。

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