【Jリーグ】スキラッチが日本に残してくれたもの ワールドカップ得点王の肩書きは伊達じゃなかった (3ページ目)
【中山→高原→前田へと受け継がれていった】
日本におけるハイライトは、1995年のシーズンだろう。
2ステージ制のファーストステージで全26試合に出場して、24ゴールを叩き出した。チーム総得点48の半分を、ひとりでマークしている。2位の野口幸司(ベルマーレ平塚/現・湘南ベルマーレ)は16得点、3位の福田正博(浦和レッズ)、ベッチーニョ(平塚)、デリー・バルデス(セレッソ大阪)は15得点だったから、スキラッチの得点能力は抜きん出ていた。
しかし、得点王に輝くことはできなかった。セカンドステージはケガで欠場することが多く、ゴール数を伸ばすことができなかったのだ。福田に最終節で上回られ、タイトルを逃したのだった。それでも、34試合出場で31ゴールの数字は驚異的である。
当初は1995年シーズンまでの契約と見られていたが、1996年シーズンもサックスブルーのユニフォームを着た。このシーズンは全30試合のうち23試合に出場し、得点ランク4位の15ゴールを記録している。計算できるFWとして貴重な戦力だった。
適切なタイミングに、適切な場所にいる選手だった。それこそが、彼が誇るべき才能だっただろう。
得点王を争う彼のような選手は、「シーズンに何点取りたいか」とか「得点王になるには何点必要か?」といった質問を受けることが多かった。Jリーグ開幕当時の取材現場では、サッカーに馴染みの薄い人にも関心を持ってもらうために、わかりやすい数字を記事に織り込む傾向があったように思う。
スキラッチの答えは決まっていた。
「自分の持っている力を、試合で最大限に発揮することに集中している」
リーグ戦は1試合ずつの積み重ねである──。2025年の今なら日本でも共通理解となっているメンタリティを、30年前のスキラッチは僕らに訴えてくれていた。
Jリーグ30数年の歴史で、得点王を輩出したクラブは「15」を数える。複数人の得点王を輩出したクラブも多いが、その全員が日本人選手のクラブはひとつしかない。
ジュビロ磐田である。
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