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【Jリーグ】スキラッチが日本に残してくれたもの ワールドカップ得点王の肩書きは伊達じゃなかった (2ページ目)

  • 戸塚 啓●取材・文 text by Totsuka Kei

【背番号「9」は中山に譲った】

 イタリア代表とセリエAでの彼は、ワンタッチゴーラーの印象が強かった。中盤ではシンプルに味方選手へボールをはたき、ゴール前へ走り込んでいく選手だった。

 その印象が覆されたのが、1993年2月である。

 アメリカワールドカップ・アジア1次予選を控えた日本代表が、イタリア・レッチェでインテルと練習試合を行なった。日本はシーズン開幕前の調整段階で、セリエAはシーズン真っただ中である。コンディションの違いはあるものの、スキラッチは日本のDF陣をスピードでぶっちぎったのだ。

 ジュビロ磐田の一員となると、ここでもまたスピードを見せつけた。ドリブルで自ら運んでいくプレーが、選択肢のなかに入っていた。しかもスピード豊かに、かつ力強く前進していくのだ。

 ゴール前での決定力は、全盛時と変わらずに高い。GKが弾いたこぼれ球や、DFに当たってコースが変わったボールをすかさず押し込む姿は、テレビが映し出てきた彼そのものだった。クロスボールをワンタッチで合わせるシュートの技術は、ゴールを奪うことが簡単に思えた。

 また、それまであまり見せてこなかった得点パターンも見せた。華麗なターンから左足でゴールの隅へコントロールされた一撃を決めたり、ペナルティエリア外から強烈なシュートを突き刺したりしてみせた。

 世界のトップレベルで戦ってきた選手がJリーグのピッチに立つと、これほどまでにできることが増えるのか。黎明期のJリーグはまだまだ学ぶことがあると、スキラッチが教えてくれた気がする。

 ジュビロ磐田には1994年から1997年まで在籍した。当時のJリーグは変動背番号制で、スタメンの11人が「1」から「11」までを着けた。

 加入1年目の1994年は、中山雅史が長期不在だったこともあり「9」を着けた。1995年の開幕節も同じく「9」で挑んだが、自身がチャンスを逃してジェフ市原に敗れると、翌2節から「11」を着ける。「9」は中山に譲った。「このチームのファンは、9を着ける中山を見たいだろうから」と優しい笑みを浮かべて話した。

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