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【Jリーグ】柏レイソルのスタイルはついに確立されるか 「走る日立」の激動の歴史を振り返る (4ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【1970年代はスター選手が入団】

 そういえば、「走る日立」の前には「雨の日立」という言葉もあった。

 1965年にスタートしたJSL初年度は東洋工業(のちのマツダ、現サンフレッチェ広島)が12勝2分無敗で優勝。2年目も東洋工業は12勝1分1敗で連覇を飾ったのだが、この「1敗」は日立本社によるものだった。

 それが、豪雨のなかのゲームだったのだ。会場は広島県立国泰寺高校(旧、広島一中)の芝生もないグラウンドだったから、まさに泥濘戦だった。

 そして、その後も雨のなかの試合に強いというので「雨の日立」と言われたのだ。

「雨の日立」にしても「走る日立」にしても、泥臭く戦うチームカラーが想像できるだろう。

 当時、東洋工業には小城得達や松本育夫といった日本代表のレギュラーが勢ぞろいしていたし、三菱には「20万ドルの足」杉山隆一や森孝慈、ヤンマーディーゼル(現セレッソ大阪)には釜本邦茂やネルソン吉村(日本名、大志郎)といったスター選手がいたが、それに比べると日立にはJSL初代得点王の野村六彦とか平沢周策といった、ちょっと地味な曲者タイプが揃っていた。

1970年のJSL。日立の試合の入場券(画像は後藤氏提供)1970年のJSL。日立の試合の入場券(画像は後藤氏提供)この記事に関連する写真を見る しかし、1970年代後半になると日立製作所には大学出身のスター選手が次々と入団してくる。1976年には碓井博行(早稲田大)と高林敏夫(中央大)、そして1978年には西野朗(早稲田大)といった日本代表クラスの選手たちだった。

 だが、他のJSLクラブのように強化体制が整っていなかったため、日立はJSLで2部降格も経験。Jリーグ創設メンバー(いわゆる「オリジナル10」)に選ばれず、Jリーグ参入は1995年のことだった。

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