【Jリーグ】柏レイソルのスタイルはついに確立されるか 「走る日立」の激動の歴史を振り返る (3ページ目)
【走る日立】
ただ、日立製作所サッカー部=柏レイソルのチームのスタイルは、他クラブ以上に変化に富んでいるような気がする(悪く言えば「一貫性がない」ということになる)。
日立製作所サッカー部は1939年に同好会として発足し、翌1940年に正式なサッカー部となったというから、実に長い歴史を持っている。
もうひとつ、茨城県日立市には「茨城日立」というチームがあり、こちらの創部はなんと1923年つまり大正時代のことだ。そして、1941年に早稲田大学を卒業した高橋英辰が入団し、当時の茨城日立は本社サッカー部を凌ぐ実力を持っていたのだという。
さすがに、これだけ古い話になると僕にとってもすべて伝聞でしかないのだが、かなり後にはなるが晩年の高橋氏(愛称「ロクさん」)には懇意にしていただき、いろいろ話を聞かせてもらった。皮肉な物言いが特徴的な高橋氏だが、洒脱でとても話が面白い人物だった。
高橋氏は1947年に本社に転属となり、本社サッカー部(茨城と区別するため、1970年まで「日立本社」と称していた)で選手として活躍する一方、早稲田大学監督としてもチームを優勝に導いている。
そして、高橋氏はローマ五輪予選敗退後の1960年に日本代表監督に就任したが、1962年にはデットマール・クラマーコーチの提言で若い長沼健と監督を交代。高橋氏本人は1964年の東京五輪を目指していたはずで、そのせいかサッカー界から一時的に身を引くことになった。
だが、JSL誕生後、古河や三菱の後塵を拝することになった日立本社再建のため、高橋氏は1969年に日立本社監督に就任。「走る日立」と称してチーム強化を進め、1972年にはJSLと天皇杯で優勝を遂げることに成功した。
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