検索

乾貴士「あれは一生忘れないでしょうね」野洲高優勝時の伝説のゴールを語る (2ページ目)

  • 鈴木智之●取材・文 text by Suzuki Tomoyuki

【1個上の先輩たちについていき野洲高へ】

 乾が野洲高を選んだ理由。それは何より、先輩たちの存在だった。

「付き合いが長い人たちが多かったんで。1個上の先輩たち、なかでも金本、平原は、小1、小2の時から一緒にやってる関係性なんで」

 金本竜市、平原研。全国優勝時の中心選手だ。金本はキャプテンを務め、長短自在のパスで攻撃をコントロール。平原は圧倒的なテクニックとアイデアで野洲の攻撃を彩った、背番号10である。

「順平くんもそうですけど、その人らが中心でやってて。僕だけ小学校からの仲やから、ケンとかニッチョ(金本のあだ名)とか、先輩やのに呼び捨てにしていたぐらいですから(笑)」

 後輩たちがみんな「さんづけ」や「君づけ」で先輩を呼ぶなか、乾だけは「ケン」「ニッチョ」と呼び捨て。それが許される関係性だった。

 さらに山本佳司監督、岩谷篤人コーチは、高校サッカーの旧態依然とした指導とは一線を画す指導者。自由な雰囲気が選手たちの個性とマッチし、ぐんぐんと力をつけていった。

「(中学時代の恩師)岩谷さんが、僕の1個上の人らが入学すると同時に、野洲高のコーチになったんです。1個上はケンやニッチョ、順平くんとかがいて、中学時代は全国大会に行けそうなぐらい強かったんですよ」

 滋賀県のクラブチームであるセゾンFCに、乾たちは小学生の頃から所属していた。中学もそのままセゾンに上がり、青木孝太(野洲高卒業後、ジェフユナイテッド千葉に加入)や楠神順平らが加わった。

 のちに野洲高で全国優勝することになるメンバーが揃い、岩谷監督のもとで「相手の逆をとる」「全員で同じイメージを描く」をコンセプトに、攻撃的なサッカーを展開していた。しかし予選で京都サンガF.C. U-15に敗れ、全国出場の夢は叶わなかった。

「その試合の後、1個上の人らが『俺らはみんな野洲高に行くからついてこい。そこで全国に行こう!』みたいな話になって。それについていったって感じです」

 先輩たちのあとを追うように、乾も野洲高へ。Aチームに絡み始めたのは、高校2年生の春休みが終わった頃だった。当時、岩谷コーチに言われて、いまでも忘れられない言葉がある。

「岩谷さんにずっと『使われる側やぞ、お前は』って言われてたんで。僕はずっとそっちのタイプやと思ってやってましたね」

 味方からパスを受けてチャンスを作り、ゴールを決める。それが乾の役割だった。

「プロになって年齢を重ねて、経験していくなかで変わってきましたけど、基本的にはずっと使われる側でした。いいパサーがいて、動き出しに合わせてパスをもらうとか、動き出しでフリーになって、そこにパスを出してもらうとか」

 使われる側からすると、野洲高の環境は最高だった。

「優勝メンバーからは、ほんまにいいパスが出てくる。最高でしたよ。ケンからもニッチョからも来るし。いろんな人から来るので、本当に楽しかったですね」

2 / 3

キーワード

このページのトップに戻る