【Jリーグ】中田英寿にも影響を与えたベッチーニョは「プロフェッショナルとは何か」を体現していた (2ページ目)
【なぜセレソンがJFLへ】
日本についての知識も、日本サッカーの情報もない。日本語もまるっきり理解できない。小さな子どももいた。さらに言えば、誕生したばかりのJリーグではなく、Jリーグ入りを目指すクラブからの誘いである。24時間以上かかるフライトに乗る理由は、率直に言って見つからなかった。
ところが、ベッチーニョは日本へ向かうのだ。Jリーグ入りを目指すベルマーレ平塚でプレーするために、1993年に来日するのである。
「妻とも話すことがあるのですが、なぜ日本へ行くことを決めたのか、自分でもうまく説明ができないんです」と笑う。
「最初の契約は1993年のシーズンだけだったのです。チームはJFLで優勝して、僕は11点取りました。クラブからは延長のオファーを受けました。次の年からはJリーグでプレーできるのに、ブラジルに帰ったらもったいないじゃないですか。Jリーグはものすごく盛り上がっていましたからね」
ベットの愛称で呼ばれるようになった彼は、Jリーグ昇格1年目のチームを力強く牽引していく。リーグ戦37試合に出場して24ゴールを叩き出し、チームをセカンドステージ2位へと押し上げる。シーズン後のJリーグアウォーズでは、ラモス瑠偉やビスマルク(いずれもヴェルディ川崎)とともにベストイレブンに選出された。
妻と子どもたちと一緒に来日したが、1994年の開幕当初は単身赴任だった。妻がふたり目の出産を控えてブラジルに帰国していたからで、3月に生まれた息子にもしばらくは会えなかった。
練習や試合後の囲み取材で、ベットは「家族がここにいないのはすごく寂しい。妻とは毎日、国際電話で話しているんだ」と、切ない胸の内を明かした。
もちろん、センチメンタルなのはオフ・ザ・ピッチだけだ。チームの成長につながる地道な積み重ねを、ベットは実行していった。
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