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ブーイングをエネルギーに変えてきた森脇良太「世界でも通用する監督になりたいと本気で思っています」 (3ページ目)

  • 原山裕平●取材・文 text by Harayama Yuhei

【大宮アルディージャからオファーが来た】

── ただ明るく振る舞っていたわけではないと。

「そうですね。ピッチで戦うところでは絶対にふざけたくないなって。周りの人からは、あいつはちゃらんぽらんでサッカーにまじめに向き合ってないとか、いろんなことを言われましたし、誹謗中傷もたくさん受けました。記者の方にもいろんなことを書かれたんですけど、ある意味で成長する糧としては必要なことだと思っていました。

 ただ、やっぱり悔しい気持ちも当然ありました。反論したい気持ちもありましたけど、自分はピッチで結果を残すことで自身の存在価値を証明したかった。その意味では批判の声も、自分が成長するために必要なことだったと思います」

── 特に熱いサポーターが多い浦和時代には、メンタル的にも厳しい時期があったのでは?

「浦和のサポーターはすごかったですね。3連勝しても次の試合に負けたら、かなり厳しい声が飛んできましたから。でも、サポーターの人たちからすれば、目の前の1試合にかける思いが強いのは当然のことですし、それではダメなんだなっていうことを学ばせてもらいました。

 だから、厳しい声も前向きに受け止めていたので、メンタルが挫けることはなかったですね。浦和に移籍した当初も、なんでこんな下手くそな奴を獲得したんだっていう声も聞こえてきましたけど、それも自分のエネルギーに変えていました」

── 浦和に移籍する際には、広島のサポーターからも厳しい声がありましたよね。

「初優勝した次の年ですからね。『お金に釣られたのか?』っていう声もありました。もちろんお金のことを僕も否定しないし、やっぱり選手としての価値はお金で測られる部分もあるじゃないですか。ただ、お金も大事なんですけど、それだけじゃなかったということを多くの方に知ってもらいたいなと思います。

 これはあまり言ったことがないんですが、ミシャが広島を辞めた年、僕に大宮アルディージャからオファーが来たんですよ。アルディージャもうしろからボールをつなぐサッカーをやりたいから、その色を加えてほしいと。

 本当に必要だと言ってくれて、お金もかなりよかった。魅力的なオファーでしたけど、自分はどこでサッカーと向き合いたいのか、どこで成長できるのかを考えた時に、やっぱり広島だなと。広島でまだタイトルを獲っていないし、もっと活躍しなきゃいけないという思いもあったので、広島に残る決断をしました。

 次の年に浦和に行った時も、お金以外のところに重きを置いて、移籍を決めました。多くの方はお金かよと思ったでしょうけど、広島で優勝して、今度は違う環境で、また結果を残したいという気持ちが強かったですね」

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