松井大輔がプロ生活23年を振り返る「ちゃんと話すと、本1冊でも収まらないよ(笑)」 (4ページ目)
【それまでの体のつくり方ではもうダメ】
── ディジョン時代(2011-2012シーズン)は、リーグ・アンでのプレーは開幕直後の数試合だけで、あとはBチームに回されて4部リーグ(アマチュア)でプレーさせられました。コンディション的にも一番よくなかった時期だったのでは?
「ケガもしましたしね。でも、監督の構想外となったところで、ちょうど子どもが生まれた時期だったので、フランス以外のクラブに移籍もできなかった。もうディジョンに留まるしか選択肢はなくて、とにかく耐える時期でしたね。
それと、2011年の冬にトム・トムスクからグルノーブルに戻って、その夏にディジョンに移籍するんですけど、その頃に自分の体が転換期を迎えていたんです。ちょうど30歳を過ぎた頃ですが、今思えば、体の変化に合わせて調整方法を変える必要がありました。
もうベテランの域に入っていたのに、ディジョンでは移籍のタイミング的に開幕前のキャンプに参加できなかったにもかかわらず、体づくりをしないまま試合に出たので、体は動かないし、すぐにケガもしてしまった。1カ月くらい時間をかけて体をつくっていれば違ったのに......。あの時、それまでの体のつくり方ではもうダメだと気づかされました」
※ ※ ※ ※ ※
華やかなイメージのある松井のキャリアだが、実はサンテティエンヌ時代以降は苦労の連続だった。そして第2の故郷とも言えるフランスを離れ、2012年にブルガリア、2013年にポーランドでプレーした松井は、ついに2014年、10年の海外キャリアにピリオドを打って帰国を決断。心機一転、ジュビロ磐田に新天地を求めたのだった。
(中編につづく)
◆松井大輔・中編>>サッカー人生の氷河期から脱出できたキッカケは「またカズさん」
【profile】
松井大輔(まつい・だいすけ)
1981年5月11日生まれ、京都府京都市出身。2000年に鹿児島実業高から京都パープルサンガ(現・京都サンガF.C.)に加入。その後、ル・マン→サンテティエンヌ→グルノーブル→トム・トムスク→グルノーブル→ディジョン→スラヴィア・ソフィア→レヒア・グダニスク→ジュビロ磐田→オドラ・オポーレ→横浜FC→サイゴンFC→Y.S.C.C.横浜でプレーし、2024年2月に現役引退を発表。日本代表31試合1得点。2004年アテネ五輪、2010年南アフリカW杯出場。ポジション=MF。身長175cm、体重66kg。
著者プロフィール
中山 淳 (なかやま・あつし)
1970年生まれ、山梨県出身。月刊「ワールドサッカーグラフィック」誌編集部勤務、同誌編集長を経て独立。スポーツ関連の出版物やデジタルコンテンツの企画制作を行なうほか、サッカーおよびスポーツメディアに執筆。サッカー中継の解説、サッカー関連番組にも出演する。近著『Jリーグを使ってみませんか? 地域に笑顔を増やす驚きの活動例』(ベースボール・マガジン社)
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