鹿島を率いて9年。トニーニョ・セレーゾが語る日本サッカーの成長 (2ページ目)

  • リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon
  • 利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

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 もうひとつは怪物ロナウドのデビューに立ち会ったことだ。1994年に1シーズンだけクルゼイロでプレーしたが、この年、16歳のロナウドもクルゼイロでデビューを果たした。ロナウドのデビューは鮮烈だったという。

「ある試合で我々は3-1で勝利したが、3ゴールともがロナウドのものだった。私は3本のパーフェクトなパスを彼に出し、その内のひとつで彼はPKをもらい、もうひとつではすばらしいゴールを決めてくれた」

 引退後、彼はまずアトレティコ・ミネイロのスーパーバイザーとなり、その後に監督も務めた。1999年にはスター選手のいないバイーア州のヴィトーリアを率いてブラジル全国リーグの準決勝まで勝ち進み、周囲を驚かせた。

 監督としても偉大な元チームメイトの手腕を、ジーコは見逃さなかった。2000年、ジーコはトニーニョ・セレーゾを鹿島アントラーズの監督に誘い、トニーニョ・セレーゾは6年間にわたって采配を振るった。ひとつのチームにこれほど長く留まった外国人監督はそうはいないだろう。

「ジーコがすでにチーム全体にブラジル人のメンタリティーを浸透させてくれたおかげで、私はとても仕事がしやすかった。日本行きはもともと私のキャリアの予定には入っていなかった。しかし、実際は日本での勝利が一番誇りに思えるものだった。日本に住み、チームを育て、選手たちが成長し、勝利を手にした。このことは忘れられない思い出だ」

 当時を振り返って、トニーニョ・セレーゾは言う。

「また、サポーターのこともよく覚えている。彼らはチーム全員のチャントを歌ってくれていた。そう、監督の私の名前まで。試合中、私は目の前のプレーに集中していたから、実はそれに気がついていなかった。しかし隣に座っていたコーチが私を肘でつつくんだ。邪魔された私は、はじめは怒ったが、そのうちサポーターが私の名前まで懸命に叫んでくれていることがわかった。セレーゾのレはRではなくLの発音だったがね。その時から私は鹿島サポーターのファンになった」

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