中村憲剛、震災と向き合った10年。「もう、支援ではないのかもしれない」 (5ページ目)

  • 原田大輔●取材・文 text by Harada Daisuke
  • photo by (C)KAWASAKI FRONTALE

 だから、僕は思うんです。その町のことを思って自分たちが動けば、それに周りも応えてくれるって。中身がなければそれは伝わるし、嘘はわかってしまう。もちろん、震災は起きないほうがよかったに決まっているけれど、震災のあとにこうして絆や関係性を築けたということは、きっと、僕らの想いが陸前高田の人たちに伝わったということなのではないかとも思っています」

 10年という節目に陸前高田を訪れた中村が、感じたことがもうひとつあった。これまたフロンターレをもじって、『カリフロニアフィールド』(フロにかけている)と名付けられた人工芝のサッカー場で、子どもたちがボールを蹴っている姿を見た時だった。

瓦礫の山だった場所に作られた人工芝のサッカー場にも訪問瓦礫の山だった場所に作られた人工芝のサッカー場にも訪問「10年前、瓦礫の山だった場所に人工芝のサッカー場が新しくできて、そこで子どもたちが真剣にボールを蹴る姿を見て、僕はスポーツの力を感じました。

 僕らが来なくても、そこに何かが作られたとは思います。でも、プロのサッカー選手たちである自分たちが毎年、ここに足を運んだからこそ、町の人たちがここにはサッカー場を作ろうって思ってくれたのかな。そう思うと、自分としても感慨深いものはありました」

 もう10年、まだ10年----。

「もう、支援ではないのかもしれないですね。今では、相互で支え合う段階になってきているように思います。僕らが一方的に何かをするのではなく、両者で意見を交わしながら、これからも、さらに発展していければと思っています」

"支援はブームじゃない"。

 川崎フロンターレが掲げるマインドである。そこには、クラブと陸前高田が築いてきた絆が物語っている。そして......その思いは形を変えながら、これからも続いていく。

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