ベンゲルが連れてきた名古屋の「塔」。父は偉大なセレソン主将だった (2ページ目)

  • リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon
  • 利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

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 そして日本に渡り、名古屋グランパスで5年。

 多くのJリーガーブラジル人は、日本のチームに所属しているブラジル人監督やブラジル人スタッフの誘いを受けて日本にやってくる。だが、トーレスの場合は違った。

 彼を日本に呼び寄せたのはアーセン・ベンゲル。世界でも最も偉大な監督のひとりであり、1995年、名古屋の監督に就任していた。

 グランパスからの招聘は誠実でリスペクトのあるものだった。そこでトーレスは、日本でサッカー人生を終える覚悟で名古屋にやって来た。

 興味深い事実がある。トーレスはあと一歩で、二代にわたってW杯優勝を果たした唯一の親子になれるところだった。

 父カルロス・アルベルトは、自身の3度目のW杯、1970年メキシコ大会でキャプテンとして優勝した。そして息子のほうは、1994年アメリカ大会でブラジル代表に招集された。この時のブラジルが、PK戦の末にイタリアを下して優勝したのは皆さんもご存じだろう。しかし彼は、代表チームがアメリカに出発する直前にケガをしてしまい、結局、代表に入ることができなかった。

「私のサッカー人生の中でも最もつらい時だった。W杯でプレーし、ブラジルを助け、世界チャンピオンの一員になれるはずだった。なにより唯一親子でW杯を勝ち取れるチャンスを逃してしまったのがつらかった。本当に悲しかった」

 トーレスはその時のことをそう振り返っている。

「そして誰も知らないだろうが、その悲しみから私を救ってくれたのが日本だった。名古屋で私は笑顔を取り戻し、サッカーをプレーする喜びを取り戻した」

 カルロス・アルベルトは攻撃参加するDFの草分けのひとりだった。そして息子のトーレスも、攻撃を任せられるDFだった。長身を生かしてのヘディングシュートはいつも相手のゴールを脅かしていた。

 しかし、やはり彼の一番の専門は相手選手にゴールさせないことだ。彼を名古屋に誘ったベンゲルはこう言っている。

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