「フジタ」撤退から激動の10年。それでもベルマーレは消滅しなかった (7ページ目)

  • 川端康生●文 text by Kawabata Yasuo
  • photo by Kyodo News

「湘南」となった最初のシーズン、ベルマーレはJ2で8位に終わる。そして翌2001年も8位、その翌年は5位と上位に進出したが、その後は、10位、10位......。

 チームの成績と比例して、観客動員も低迷した。「平塚」としてJリーグ入りを果たした1994年の1万7000人(1試合平均)との比較ではない。フジタが撤退を決め、J2に降格した1999年でさえ7000人台だった観客が、この頃には4000人台にまで落ち込んでしまっていたのだ。

 当然、年間予算も7億円程度で横ばいの状態が続いた。台所はいつも火の車だった。目前に債務超過が迫る、まさしく"崖っぷち"に立たされた年も何度かあった。スポンサー企業の不祥事や経営破綻に揺さぶられることもあった。

 それでも、ベルマーレが活力を失わず、それどころか先駆的な施策を打ち出し続けたのは、母体は変われど、藤和不動産以来の伝統が受け継がれていたからかもしれない。

 2001年、ビーチバレーとトライアスロンのチームを発足。翌年にはビーチバレーで渡辺聡&白鳥勝浩のペアがアジア大会で金メダルを獲得する。その後も新競技を増やしていき、サッカーのサポーターが他競技の選手を応援する光景が見られるようになっていく。

 そんな競技や下部組織の運営の受け皿としてNPO法人も設立した。Jクラブとして初の試みだった。新たなビジネスモデルへのトライは、総合型スポーツクラブという新たな挑戦に結びついていった。

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