【育将・今西和男】「恩返ししなければ」 高木琢也が決意した理由 (4ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko

 マンチェスターでは「すべてが目からうろこ」だった。当時のマンUはデビッド・ベッカムがユースにいて、ギグス、ネヴィル兄弟、スコールズらがしのぎを削っていた。練習に参加すれば、3メートルのパスでも物凄く速いボールが供給される。トラップミスをしても「それくらい、止めろ」という対応をされる。

 言葉の問題もあり、苦労はしたが、数日前まで日本の大学チームの練習に出ていた身からすれば、すべてが新鮮で衝撃的であった。何よりもプロとしてのサッカーに対する考え方に大きな影響を受けた。

 浪人どころか、ステップアップするために貴重な欧州体験を授かったのである。約3ヶ月が経過して選手とのコミュニケーションがとれ始め、プレーも認められて生活も楽しくなった頃、フジタの重松社長が便宜を図って移籍証明書を発行するという報が入って来た。

 半年で復帰が決まった。「僕は絶対に今西さんに恩返ししなきゃいけないなとそのとき、凄く強く思ったんです」。帰国後から高木の猛烈なトレーニングが始まった。
(つづく)

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【profile】
今西和男(いまにし・かずお)
1941年1月12日、広島県生まれ。舟入高―東京教育大(現筑波大)-東洋工業でプレー。Jリーグ創設時、地元・広島にチームを立ち上げるために尽力。サンフレッチェ広島発足時に、取締 役強化部長兼・総監督に就任した。その経験を生かして、大分トリニティ、愛媛FC、FC岐阜などではアドバイザーとして、クラブの立ち上げ、Jリーグ昇格 に貢献した。1994年、JFAに新設された強化委員会の副委員長に就任し、W杯初出場という結果を出した。2005年から現在まで、吉備国際大学教授、 同校サッカー部総監督を務める

高木琢也(たかぎ・たくや)
1967年11月12日、長崎県生まれ。国見高、大阪商業大を経て、フジタ(JSL)に入団。1年後、マツダに移籍して、プロ契約。1993年Jリーグが開幕し、広島―ヴェルディ川崎―札幌でプレーした。1992年日本代表に選出され、広島開催のアジアカップ決勝戦で、ゴールを決め、日本の初優勝に貢献した。2000年、現役引退。解説者などを務めた後、2006年J2横浜FCでコーチに就任。そのシーズン第1節終了後、前監督の解任に伴い、監督に昇格。そこからチームは15戦無敗。J1昇格を果たして、指導力が高く評価された。その後ヴェルディ川崎、ロアッソ熊本で監督を務め、2013年、V・ファーレン長崎の監督に就任した

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