【育将・今西和男】 森保 一監督が継承する「サッカー哲学」 (3ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko  photo by Kyodo News

 オフトは1987年にマツダに天皇杯優勝をもたらすも、この年のシーズンに二部リーグ落ちの責任を取って監督を退任する。離日の際に「このチームには将来プロの指導者に成れるやつが3人いる」と今西に漏らした。それは前川(和也/現バイエルンツネイシ監督)、横内(昭展/現サンフレッチェ広島ヘッドコーチ)、そしてまだ1試合も出場していない森保だった。

 今西はポスト・オフトの監督にイングランド人のビル・フォルケスを招聘する。フォルケスは元マンチェスター・ユナイテッドのキャプテンで、23名の死者を出した1958年の飛行機事故「ミュンヘンの悲劇」から奇跡的に生還したバスビー・ベイブス(バスビーの息子たち)の一人である。

 このフォルケスが森保の資質に目をつけた。当時のフォルケスのサッカーは、まさにイングランドスタイルで、パスワークで崩すというよりも肉弾戦でボールを奪い合ってゴールにねじ込むというトレーニングだった。ボールを運んで、蹴って、走って、相手とぶつかって、ぶっ倒れて、そこから立ち上がってまた蹴る、という当時の森保にぴったりの役回りだった。

 フォルケスはグラウンドで選手を集めるとよくアドバイスを送った。「いいか、ショルダーチャージというのはこうやって...」語るや否や、そばにいた森保を必ず肩から吹っ飛ばした。「当たるんだ」

 いじられキャラとなったが、大阪ガスとの試合で、ついに公式戦デビューを果たした。そして風間八宏(現川崎フロンターレ監督)のアシストでゴールを決めた。実はこの間、今西はフォルケスと一緒にどのタイミングで森保を使うのかをじっくりと見極めていたのである。高校時代は無名、マツダに来ても2年間試合に出ておらずキャリアが浅いので、成功体験が伴える相手のときということで周到に準備されていた。

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