【特別寄稿】サッカーJ2、FC岐阜・恩田社長の決意と覚悟 (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by Kyodo News

 研究とやりたいことのギャップに少し悩み始めたころ、ひとつの転機が訪れる。付き合っていた彼女から「東京ディズニーシーがオープンしたから、一緒に行こう」と誘われたのだ。貧乏な大学院生の身の上で、東京まで行って、テーマパークで散財するのは気が引けたが、仕方ないなと腰を上げた。

 ところが行ってみて驚いた。めちゃくちゃ楽しかったのだ。何より驚いたのは、運営する側のホスピタリティの高さだった。パレードの始まる1時間前にはほとんどのお客さんが見やすい場所を取って辛抱強く待っている。パレードそのものもすばらしかったが、そのお客さんが嬉しそうに帰って行く様子に感動した。

「おおよそひとり1万円を払って、1時間も待たされた人たちが、それでも来た甲斐があったと思って、『ありがとう』と言って、これ以上ない笑顔で感謝しながら帰っていく。こんな世界があったんだ」

 恩田聖敬の人生はここから180度変わる。宇宙工学博士の道から、人に喜びと感動を与えるアミューズメント産業の世界へと進むことを決意したのであった。
 

京都大学大学院から、ゲームセンターの深夜スタッフに

 最初に入社したのはカラオケやゲーム機などを置く、レジャー複合施設を運営する大阪のベンチャー企業・ネクストジャパンだった。25歳で新卒採用された恩田は、店舗のスーパーバイザーになって一から現場で鍛えられて来ることを求められた。配属は東大阪市若江岩田駅にあるショッピングセンター近鉄ハーツに開店したアミューズメント施設のJJクラブ100だった。

  京大大学院卒の工学博士はいきなりゲームセンターの店員になった。ここは24時間営業の会員制の店でゲートを越えて中に入れば遊び放題、15分で105円ずつ課金されるという豪快なシステムだった。ただでさえ、お世辞にも柄が良いとはいいづらい東大阪の店舗、しかも恩田に任じられたシフトは夜の23時から朝の8時まで。風営法の適用外の店だったのでこういう展開が出来たのだ。

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