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サッカー日本代表が韓国にまったく勝てなかった時代 「東大門運動場」での戦いの歴史 (3ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【100年前に完成】

 日本のサッカーにとっては屈辱のスタジアムだった東大門運動場だが、実はこのスタジアムは日本統治時代の1925年に、皇太子(のちの昭和天皇)の結婚を記念して日本(朝鮮総督府)が建設したもので、完成当時は「京城(けいじょう、キョンソン)運動場」と呼ばれていた(京城は当時のソウルの名称)。

 1910年に朝鮮(大韓帝国)を併合した日本は、当初は「民族意識を高揚させる」として朝鮮人によるスポーツ大会を禁止した。だが、1920年代に入ると朝鮮総督府は朝鮮人との融和のためにスポーツを利用しようとする。

 朝鮮の野球やサッカーのチームは日本国内のさまざまな大会に参加したし、1936年のベルリン五輪では朝鮮出身の孫基禎(ソン・ギジョン)と南昇龍(ナム・スンニョン)がマラソンで金メダルと銅メダルを獲得。サッカーの日本代表にも朝鮮出身のMF金容植(キム・ヨンシク)が入ってスウェーデン戦勝利に貢献した。

 そんな時代に、スポーツの中心となったのが東大門運動場だった。東大門運動場には陸上競技場(兼サッカー場)だけでなく、野球場や水泳プール、テニスコート、シルム(韓国式相撲)場も建設され、手狭な敷地内にスポーツ用品店や食堂なども軒を並べることになる。

 東京の明治神宮外苑競技場(国立競技場の前身)や兵庫県の甲子園野球場が完成したのが1924年だから、その翌年にほぼ同規模のスタジアムが京城にも造られたということになる。ちなみに、1926年には朝鮮北部の中心都市、平壌(ピョンヤン)にも牡丹峰(モランボン)運動場が完成している。同運動場のあった場所には、現在、金日成(キム・イルソン)競技場が建設されている。

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