2004年アジア杯準決勝、
奇跡の逆転勝利をもたらした宮本恒靖の独断

  • 佐藤 俊●取材・文 text by Sato Shun
  • 甲斐啓二郎●撮影 photo by Kai Keijiro

私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第9回
奇跡の連続だったアジア杯中国大会の真実~宮本恒靖(2)

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15年前のアジアカップについて語った宮本15年前のアジアカップについて語った宮本 2004年アジアカップ中国大会――。

 日本は準々決勝でヨルダンとのPK戦に及ぶ死闘を制して、準決勝進出を決めた。

 戦いの場は重慶から済南へと移ったが、反日感情を抱く地元民の、日本代表への苛烈なブーイングや邪険にする姿勢は、とどまるどころか、さらにエスカレートしていた。

 準決勝の相手はバーレーン。ウズベキスタンとの準々決勝では、日本と同じくPK戦までもつれた試合をモノにして勝ち上がってきた。それでも、日本がヨルダンと戦った前日に試合を終えており、移動を含めて中2日で試合に臨む日本より、スケジュール的には1日余裕があった。

 そうした日程面での違いもあってか、日本はヨルダン戦以上に苦しい展開を強いられた。前半6分に先制され、同40分にはMF遠藤保仁がレッドカードを受けて退場してしまったのだ。

「正直、体はきつかったですね。スタジアムの雰囲気も重慶のときと変わらなかったし、いろいろあってギリギリの勝利だったヨルダン戦から中2日で、またも相手に先制されて......。しかも、ヤット(遠藤)が退場。また『今日も何かあるのか』っていう感じでした」

 宮本恒靖は、あのときの試合のような厳しい表情を見せて、そう言った。

 実はこのバーレーン戦の前日、試合の入り方について「選手みんなで確認した」と宮本は言う。

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