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PKのサイド変更。15年前、
宮本恒靖が大胆な進言に至った本当の理由

  • 佐藤 俊●取材・文 text by Sato Shun
  • 甲斐啓二郎●撮影 photo by Kai Keijiro

私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第9回
奇跡の連続だったアジア杯中国大会の真実~宮本恒靖(1)

 2019年アジアカップが始まった。森保一監督率いる日本代表は、2011年大会以来の王座奪還を目指して厳しい戦いを続けている。

 アジアカップで日本が初めて優勝したのは、地元開催の1992年大会だった。以降、2000年大会(レバノン)、2004年大会(中国)、2011年大会(カタール)と計4度、アジアの頂点に立っている。なかでも、今なお多くの人々に語り継がれ、激的な勝利の連続だったのが、2004年大会である。

 同大会に臨んだ日本代表の主将・宮本恒靖(現ガンバ大阪監督)は、当時を振り返って、「非常に難しい大会だった」と語る。だが、そのチームには、国際大会を勝ち抜くための"不変の真理"とも言えるものが備わっていた――。

 宮本は15年前のアジアカップ初戦のことを、昨日のことのようにはっきりと覚えているという。

 相手はオマーン。日本が圧倒的に攻めていたが、なかなかゴールを奪えなかった。一方で、その隙を突いてオマーンも鋭いカウンターを仕掛けてきたため、宮本らDF陣は思いのほか守備に追われた。最終的には、中村俊輔が鮮やかに決めた虎の子の1点を何とか守り切ったが、薄氷を踏む勝利だった。

「初戦のオマーン戦は、本当に苦しい試合でした。俊輔のゴールで勝ったけど、攻守に課題が残り、この大会の難しさをあらためて感じました」

 それでも、続くタイ戦は4-1と快勝し、グループリーグ最終戦のイラン戦は引き分け以上で決勝トーナメントに進出できる状況だった。それはイランも同様で、このグループリーグ最終戦における両チームの思惑は合致していた。そのため、試合のラスト5分は両者ともガードを下ろし、最後は日本がボール回しているなか、笛が鳴った。

「今にして思えば、(ロシアW杯の)ポーランド戦のようだったけど、あのときは(グループリーグを戦った)重慶にとどまって(準々決勝の)試合をするために、『このまま(0-0)でいい』と腹をくくった」

 グループリーグ首位通過を決めた日本は、そのまま重慶で準々決勝を迎えた。対戦相手はヨルダンだった。

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