2012.10.12

元日本代表MF、バルセロナへ。
第2の人生をスタートさせる廣山望の思い

  • 田崎健太●取材・文 text by Tazaki Kenta
  • photo by Tazaki Kenta

今シーズン、アメリカのUSL、リッチモンドでプレイしていた廣山 どんなサッカー選手にも引退の決断をしなければならない時期が来る。その時、選手生活に納得できたかどうかは別にして、だ。

 廣山望が引退を決意したのは、2011年のシーズンが終わったころだった。

 1977年、廣山は千葉県市原市に生まれた。習志野高校を卒業後、ジェフ市原に加入し初年度からポジションを獲得した。各年代の代表に招集され、97年にマレーシアで行なわれたワールドユースには8番をつけて出場している。

 風向きが変わったのは、99年ごろのことだった。21歳以下日本代表監督となったフィリップ・トルシエは、シドニー五輪一次予選を最後に廣山を招集しなかった。さらに2000年のシーズン、廣山は三度の肉離れを起こし、ほとんど試合に出場できなかった。

 20代前半はサッカー選手にとって最も重要な時期である。ちょっとしたきっかけで無名の選手が世界で誰でも知られている選手になることも可能だ。

 例えば、学年では廣山のひとつ上に当たる中田英寿は、96年アトランタ五輪、98年W杯フランス大会に出場し、世界への階段を一足飛びで駆け上がっていった。

 2001年、廣山はジェフ市原(現在の千葉)からパラグアイのセロ・ポルテーニョへとレンタル移籍を志願した。パラグアイはサッカー強豪国ではあるものの、外国から選手を受け容れるというよりも”輸出”で金を稼ぐことを指向している。そうした国に代表クラスの選手が行くのは、異例のことだった。

 廣山はセロでポジションを獲得し、日本人として初めてリベルタドーレス杯に出場すると、国内リーグ優勝に貢献、日本代表にも招集された。

 どうしてパラグアイだったのか――。廣山は当時こう語っている。

「高校からプロ入りして最も違っていたのは、外国人選手がいたこと。彼らと話をするうちに、自分の知らない世界が海外にあることが分かりました。せっかくサッカーをやっているのだから、日本で選手生活を終えるのは惜しいと思ったんです」