篠塚和典も「あのケガがなければ......」と惜しむ吉村禎章 高卒2年目にして光っていたバッティングセンス (2ページ目)
――吉村さんのスタイルは、プロ入り間もない頃から完成されていたのでしょうか。例えば、広角にヒットを打ち分けるようなバッティングは当初からできていた?
篠塚 逆方向に打つようになったのはしばらく経ってからです。最初の頃は引っ張る印象がありました。引っ張るイメージを持ちながら、ボールがバットに当たる箇所によって逆方向に飛んでいくこともある、といった感じでしたね。長距離バッターというよりも中距離バッターで、ホームランを打つタイプには見えませんでした。
高卒でありながらプロ入り2年目に84試合に出場(104打席)していますし、首脳陣にも「これから巨人の主力として育てていかなければいけない」という思いがあったと思います。
――吉村さんが入団した前年には、原辰徳さんがドラフト1位で入団していますし、チーム内の競争が激しくなったり、ある程度メンバーが固まってきた時期でしたね。
篠塚 ヨシは外野手でしたから、競争相手としては(1983年に加入して4番を務めた)レッドソックスやドジャースなどで活躍した主砲レジー・スミス、松本匡史さん、淡口憲治さん、(1984年には)ウォーレン・クロマティも入ってきましたからね。そういったなかでも期待されていたと思いますよ。
【その後の野球人生に関わる大ケガの瞬間】
――1985年から「最高出塁率」が表彰の対象になりましたが、同年は阪神のランディ・バース選手と最後の試合まで同タイトルを争いました(バース.428、吉村.427)。
篠塚 私が出塁率をあまり意識したことがないので、ほかの選手の出塁率も意識はしていませんでした。ただ、確かに打席で粘る印象はありましたし、選球眼はよかった印象があります。今では出塁率が重視されていますし、そういう観点からも優秀な選手だったと言えますね。
――吉村さんの外野の守備はいかがでしたか?
篠塚 肩はそれほど強くなく、守備範囲は普通でしたが、彼の場合はやはりバッティングがよかったですから。プロ初ヒットを打った2年目から順調にキャリアアップして高卒5、6年目には素晴らしい成績(6年目の1987年は打率.322、30本塁打、86打点)を残していただけに、あのケガがなければ......クリーンナップはもちろん、おそらく4番をまかされていたでしょう。
2 / 3