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伊東勤はベテラン投手からの「好きなようにやってくれ」の言葉に救われ、一流キャッチャーへと成長した (2ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi

【江夏豊からの教え】

── バッテリーとして、思い出深い話はありますか。

伊東 春季アリゾナキャンプで、当時の西武はバントシフトなどフォーメーションが10個近くあって、箇条書きにして前もって江夏さんに渡したのです。いざ練習になると、「ナンバー3のフォーメーション? なんやそれは?」と、全然覚えてくれていませんでしたね(笑)。

── 実際に江夏さんの投球を受けて、得たものはありましたか?

伊東 今でも覚えていることがあります。「いいか伊東、投手というのはな、右打者も左打者もアウトロー(外角低め)なんだ!」と。左投手の江夏さんは、右打者の膝もとに食い込んでくるクロスファイヤーもよかったですが、アウトローのコントロールが本当にすばらしかった。ふだんの投球練習でもアウトローの出し入れをずっとやっていました。よく「ボール半個分」という表現がありますが、江夏さんは大袈裟ではなく3、4センチの勝負でした(※硬式球の直径は72.9〜74.8mm)。

── 84年の江夏さんは、20試合の登板で1勝2敗8セーブ。メジャー挑戦もありましたが、結果的に現役引退となりました。

伊東 思い出すのは、1979年の「江夏の21球」のように自らスクイズを外したことです。外した球はカーブではなくストレートでしたが、ウエストのサインは出していません。三塁走者の動きが見えない左投手の江夏さんは、リリースをギリギリまで粘って、打者のちょっとした動きでスクイズを察知して外したんでしょう。まさに"神業"でした。

── 江夏さんは大胆かつ細心の大投手でした。ロジンバックもプレートの横にきちんと置かれていました。

伊東 江夏さんもそういうところは几帳面でしたが、先述したナオさんはそれに輪をかけて几帳面でした。登板前、鏡を見ながら鼻の下のヒゲを丁寧に揃えているんです。トレードの相手同士という縁のあるふたりは、84年に1年間だけ一緒にプレーしました。これは江夏さんから聞いた話ですが、ふたりはロッカーが隣同士で、ナオさんが「ユタカ、スパイクの泥を落とそうか」と言うので頼むと、スパイクの泥を爪楊枝できれいに掃除してくれたそうなんです。そういう細心さがあって、あんなに勝てるのですね。

伊東勤が語るマスク越しに見た名プレーヤー〜打者編>>

伊東勤(いとう・つとむ)/1962年8月29日、熊本県生まれ。熊本工高3年時に甲子園に出場。 熊本工高から所沢高に転入し、転入と同時に西武球団職員として採用される。 81年のドラフトで西武から1位指名され入団。強肩と頭脳的なリードでリーグを代表する捕手に成長し、西武の黄金時代を支えた。2003年限りで現役を引退。04年から西武の監督に就任し、1年目に日本一に輝く。07年限りで西武の監督を退任し、09年にはWBC日本代表のコーチとして連覇に貢献。その後も韓国プロ野球の斗山のコーチを経て、13年から5年間ロッテの監督として指揮を執り、19年から21年まで中日のコーチを務めた

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