自称・三流の五十嵐英樹が発奮した権藤監督からのひと言 大魔神につなぐ中継ぎとして日本一に貢献
セーブ制度導入50年〜プロ野球ブルペン史
五十嵐英樹が語る「ヒゲ魔神」誕生秘話(後編)
前編:「敗戦処理からスタートした「ヒゲ魔神」五十嵐英樹のリリーフ人生」はこちら>>
1998年2月、横浜(現・DeNA)の沖縄・宜野湾キャンプ。中継ぎ右腕、五十嵐英樹の右ヒジに異変が生じた。前年3月のクリーニング手術明け、早くも6月から登板を重ねた疲労の影響か、ヒジがまったく伸び縮みしなくなった。コーチから監督に昇格した権藤博のもと、優勝を目指して意気込んでいたが出鼻をくじかれた形。当時の心境を五十嵐に聞く。
98年、横浜の日本一の立役者となった五十嵐英樹(写真左)と佐々木主浩 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【中継ぎのローテーション】
「前の年と違って、手術適応じゃなかったんです。病院でも『休むしかない』って言われて。権藤さんにお伝えしたら、『4月はみんな頑張るから、みんなが疲れた時に上がってくればいい』といったお話をいただいて。何かホッとして、治療に専念できました」
川村丈夫、三浦大輔、野村弘樹、戸叶尚という開幕ローテーションは、前年に全員が10勝した四本柱。一方でリリーフ陣は抑えの佐々木主浩が盤石ながら、五十嵐の離脱で中継ぎに穴が空いた。実績十分の盛田幸妃は前年オフ、外野手・中根仁とのトレードで近鉄に移籍していた。そのなかで穴を埋めたのは斎藤隆だった。
斎藤はやはり右ヒジを手術した影響で前年は一軍登板できず、終盤の二軍戦で復帰。プロ入り以来、先発で結果を残してきた斎藤だったが、権藤はリリーフ適性ありと見て中継ぎでの起用を決断。ただしそのまま続けることはなく、斎藤は5月末以降、本来の先発に戻って活躍する。右ヒジの故障が癒えた五十嵐が実戦で投げられるようになり、5月半ばに一軍復帰を果たしたのだ。
「一軍に上がったら上がったで、前の年と一緒でした。『最初は敗戦処理からだ』って権藤さんに言われて(笑)。ただこの98年は、いまから思うと中継ぎのローテーションがあって。だいたい僕と島田直也は別で、左の阿波野(秀幸)さんも投げたら次の日は休み。何度か連投はありましたけど、基本的に連投なしっていうのは、権藤さんが来られるまで経験なかったですね」
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著者プロフィール
高橋安幸 (たかはし・やすゆき)
1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など